2002N11句

November 01112002

 謙虚なる十一月を愛すなり

                           遠藤梧逸

や、十一月だ。季語としての「十一月」は、立冬のある月なので冬に分類。暦の上では冬に入る月だが、小春日和といわれる暖かい日々もあり、トータルでは案外十月よりも暖かかったりする。「あたゝかき十一月もすみにけり」(中村草田男)という印象深い句もある。とはいえ、一方では木枯らしの吹く日もあって、季節はじんわりと確実に冬へと向かっていく。掲句を読んで真っ先に思ったことは、句のように当月を人格化したときに、なるほど「謙虚」という表現がぴったりくるのは、今月十一月しかないだろうなということだった。前に出過ぎず、しかし着実に次の月へとバトンを渡していく感じがある。そこで、お遊びを思いついた。では、他の月には、どんな人格や性格を当て嵌めればぴったりくるのだろう。拙速で私なりに並べてみると、来月十二月は「短気」だろうか。一月は「堂々」でいいだろう。そして、我が生まれ月の二月は「孤独」。三月は浮かれがちになるので異論も覚悟で「軽佻」、逆に四月は年度はじめゆえ「実直」となる。五月は文句なしに「明朗」で、六月は「陰鬱」と言うしかあるまい。七月は「蹶起」ないしは「血気」のような感じだけれど、八月は七月の惰性みたいな月だから「怠惰」でいきたい。九月にはちょっと困ったが「素朴」としておいて、十月は案外に雨の日も多いことから「曖昧」としておこう。いかがでしょうか。下手くそすぎますかね。やっぱりね。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


November 02112002

 換気孔より金管の音柿熟るる

                           星野恒彦

うかすると、こういうことが起きる。「換気孔」からは空気が吐き出されてくるのだが、管を伝って音が出てきても不思議ではない理屈だ。いつだったか、我が西洋長屋の台所の換気扇から、かすかながらも表の人声が聞こえてきたことがある。はじめは幻聴かなと思ったけれど、そうではなかった。できるだけ換気扇に耳を近づけてみると、明らかに女性同士の話し声だと知れた。表の換気孔の近くで、立ち話をしていたのだろう。そんな体験もあって、掲句が目についた。この場合には、作者は戸外にいる。「金管(ブラス)の音」が聞こえてくるのだから、普通のマンションなどの近くではないだろう。学校などの公共の建物のそばだろうか。もとより作者に金管の正体は見えないわけだが、吹奏楽などの練習の音が漏れ聞こえてきているようだ。「柿熟るる」ころは学園祭のシーズンでもあるので、金管の音と熟れている柿との一見意外な取り合わせにも、無理がないと感じられる。金管楽器にもいろいろあるが、換気の管によく伝わるのは高音の出るトランペットの類か。いずれにしても、たわわに実った柿の木の上空は抜けるような青空であり、気持ちの良い光景に更にどこからともなくブラスの音が小さく加わって、至福感がいっそう高まったのだ。『連凧』(1986)所収。(清水哲男)


November 03112002

 うごく大阪うごく大阪文化の日

                           阿波野青畝

来が「明治節(明治天皇の誕生日)」だった祝日だけに、戦後できた「文化の日」の句には、まともに向き合わず斜に構えたものか、あるいは逆にひどく生真面目にとらえたものがほとんどだ。掲句はどちらかといえば前者に属するが、といって、この日をさげすんだり茶化しているわけではない。「『文化の日』も大いに結構や。が、東京みたいなすましとる文化は好かん」と、言外に言っている。「うごく大阪うごく大阪」のリフレインに、猥雑なほどに活気のある大阪の庶民文化を称揚し、また大阪人のそうした躍動するエネルギーこそが文化の源泉なのだと言っている。ダイナミックかつ不敵な異色の一句として、印象に残る句だ。東京の人は逆立ちしても、こういうふうには詠めないだろう。話は変わるが、「文化とは何か」という難しい問題は別にして、私たちはなぜ文化という言葉が好きなのだろうか。見渡せば、文化国家、文化都市、文化村、文化人、文化勲章、文化功労、あげくは文化住宅、文化センター、文化風呂、文化シャッター(これは商品名)、文化食品、文化包丁、文化鍋と枚挙にいとまがない。あまり知られていないようだが、戦後に魚の干物をセロファンに包んで売ってヒットした「文化干し」もあるし、キリスト教布教を目的に発足したことは知られていないが、東京では有名な「文化放送」なるラジオ局もある。とにかく本日は「文化の日」です。何だかよくわかりませんが、日本人としては「文化バンザイ」と三唱しておこうではありませんか。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


November 04112002

 此秋は何で年よる雲に鳥

                           松尾芭蕉

が間近の元禄七年(1694年)九月二十六日、大坂清水での作句。詞書に「旅懐」とある。「何で年よる」の「何で」の口語体に、ただならぬ身体の不調感がよく表われていて、いたましい。「此(この)秋は」、どういうわけで、こんなにも急に老け込んだ感じがするのだろうか。「何故に」ではなく「何で(やろか)」とくだけた物言いのなかに、自問自答の孤独性が滲み出る。誰にせよ、自問自答に文語を使用することはしないだろう。文語はあくまでも他者を意識した表現なのだから、つまり他所行きの言葉なのだから、だ。そして、この「何で」は、皆目見当がつかないという意味でもない。ある程度の心当たりは、これまた誰にでもあるのが普通だ。芭蕉の場合には、愛弟子の人間関係のこじれを、放っておけば関西蕉門の分裂につながりかねないと、自ら調停に乗りだして失敗したことが言われている。「座の文芸」には、参加者の人間関係によって盛り上がりもすれば崩壊もするという生臭さがつきまとう。このときの芭蕉には、今で言えば相当にストレスの溜まった状態がつづいていたわけで、それが身体の弱りをなお促進したと考えてよいだろう。こういうときには、人間は「何で(こうなのか)」と精神的にも天を仰ぐしかない。で、そこには「雲に(消え逝く)鳥」があったと結んだ下五文字について、「寸々の腸(はらわた)をしぼる」と述べている。苦吟もここに極まり、最後の力を振り絞って振り出したような鳥の孤影への飛躍的表現が、「何で」の個人的な思いの切実さに、濃い輪郭と深い客観性とを与えることになった。(清水哲男)


November 05112002

 秋の淡海かすみて誰にもたよりせず

                           森 澄雄

天気。「淡海(おうみ)」は「近江」であり、淡水湖を意味するから、作者は琵琶湖畔にいる。秋の好天は、透明な冷気を伴って清々しい。大気も澄み渡っていて、はるか彼方までクリアーに遠望できる。しかし、琵琶湖のような大きな湖ともなると、立ち上る水蒸気が多量のために、かえって遠目が利かなくなるときがある。まるで春の霞がかかったように、ぼおっとかすんでしまう。そんな情景だろう。作者の立つ岸辺は秋たけなわでありながら、指呼の間には爛漫の春があるように感じられる……。陶然たる気分になるというよりも、何か異界に遊んでいるような不思議な心持ちなのだ。「誰にもたよりせず」で、作者がこの地に長く逗留していることが知れる。少なくとも、二泊三日程度の短い旅ではないだろう。元来ならば友人知己のだれかれに、旅情を伝える「たより」をするところだけれど、ついに「誰にも」していない。あまりの淡海の自然の素晴らしさに心を奪われて、なんだか人間界とはひとりでに切れてしまったような気持ちである。寂しくもなければ、孤独とも感じない。大いなる自然のなかに溶け込んでいる至福とは、このような境地を指すのではなかろうか。私には漂泊への憧憬はないのだけれど、掲句には漂泊への誘いが含まれているようにも思われた。『浮鴎』(1973)所収。(清水哲男)


November 06112002

 紅葉づれる木にターザンの忘れ綱

                           服部たか子

ターザン
しいな、ターザン。イギリス貴族の末裔にして、ジャングルの王者。五十代半ば以上の世代で、この有名人を知らない人はいないだろう。「アーアーアー」と雄叫びを上げながらジャングルを駆け回り、蔓を使って枝から枝へと飛び移り、人食いワニのいる河などものともせずに泳ぎきる。これぞ正義の味方、世界最強の男。五輪の水泳選手だったワイズミュラー主演の映画は十二本制作されているが、ほとんどが日本でも公開されたのではなかろうか。私は学校の巡回映画で、そのうちの何本かしか見ていない。遊び道具など何もなかったころ、男の子はすぐに影響されて「ターザンごっこ」に突っ走った。なにしろシチュエーションとして、周囲に人工的なものがなければないほどよいのだから、山の子には好都合だったということもある。いくらでも、ジャングルに見立てられる場所があった。いちばん熱心にやったのが、木の枝に蔓ならぬ縄をくくりつけてぶら下がり、枝から枝へ飛ぶのはさすがに恐かったので、思いきり弾みをつけて遠くまで飛ぶ遊び。このときに、柿の枝が折れやすいことを実感として知った。掲句の作者は「紅葉(もみ)づれる」(紅葉しつつある)木の枝に、子供らのターザンごっこの痕跡を認めて微笑している。「紅葉づれる」という古語と「ターザン」の今風語との取り合わせが面白い。作句意図とは別に、俳句はよくこのように時代の流行り物や風俗習慣などを後世に残す装置でもある。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 07112002

 初冬のけはひにあそぶ竹と月

                           原 裕

冬。冬来たる。暦の上のことだけではなくて、今年は体感的にも納得できる。部屋に暖房を入れてから立冬を迎えるなど、何年ぶりだろうか。メモを見てみたら、昨年は11月19日に初暖房とあった。さて、これから本格的な冬に向かって、我ら人間族は日々かじかんでいくことになる。多くの動植物も、そうだ。そんななかで、むしろ寒ければ寒いほど元気な姿になるものといえば、たとえば掲句に詠まれた「竹と月」だろう。冬の月は皓々と冴えわたり、竹の緑はいっそう色鮮やかとなる。「初冬(はつふゆ)のけはひ(気配)」に「あそぶ」と見えて、当然なのだ。一見地味な句と写るけれど、これぞ自然をよく見つめた花鳥諷詠句のお手本、THE HAIKUだと思う。かじかむ自分の気持ちや様子をもって季節の移り行きをつかまえるのではなく、大きな自然を自然のままに語らせることにより、それを表現している。もとより「あそぶ」の措辞は作者の主観に属するが、これはそうした自然とともに「私があそぶ」の意が強いのであり、ことさらに月と竹を擬人化しているわけではない。白状すれば、私にはまったくと言ってよいほどに、掲句のような自然に対する感覚というのかセンスが欠けている。どこを叩いても、こうした発想を得ることができない。だから余計にTHE HAIKUだなあと、感心することしきりなのである。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


November 08112002

 ふるさとの湯たんぽの湯に顔洗ふ

                           鳥居真里子

湯たんぽ
語は「湯たんぽ(湯婆)」で冬。なぜ「湯婆」と表記されているかは、昨年の冬に書いた。参照。掲句を読んで、確かに「湯たんぽの湯」を、翌朝には顔を洗ったり食器を洗ったりするために使ったことを思い出した。前夜には熱湯を入れて寝るわけだが、さすがに朝になるとぬるま湯になっている。でも、それが洗顔などに使うには、ちょうどよい温度なのだった。でも、これは昔の人の生活の知恵というほどのことでもない。何につけ、使えるものはすべて使い回した時代だったから、とりたてて知恵と称揚するのははばかられる。ま、単純な資源の再利用法には違いないのだけれど……。さて、掲句はむろんリサイクルの考えなどとは関係はないが、かといって、故郷愛ともさして関係はないようだ。私が作者だったら、おそらく「ふるさと」ではなく「ふるさと」と詠嘆してしまうだろう。この一文字の相違は大きいなアと、何度か句を見つめ直した。その上で言うのだが、作者にあるのは、足を暖めるために使った湯を洗顔のために使うというところに面白さを見出したポップ感覚である。あくまでも「ふるさと」は従であり、「湯たんぽ」が主なのだ。「ふるさと」には「湯たんぽ」があっても不思議ではない土地だという、いわばアリバイとしての言葉運びになっている。大雑把は承知だが、元来、季語は多くアリバイとして使われてきた。それが、掲句では完全に逆転している。そこに私は一抹の寂しさを覚えながらも、俳句にとっては面白い時代になってきたのかなとも思った。この問題については、私なりにもっと考える必要がある。その意味で、ちょっと横面を突つかれたような句だった。ところで写真の湯たんぽは、ネットで今、8,000円で売られている純銅製のもの。蹴飛ばしては申し訳ないような風格がありますね(笑)。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


November 09112002

 電気毛布の中の荒野を父さまよふ

                           林 朋子

語は「毛布」で冬。ついでに「蒲団」も冬の季語なり。さて、ひところ「荒野」という言葉が流行したことがある。五木寛之が『青年は荒野をめざす』という本を書き、加藤和彦が五木の詞で曲を作ってヒットし、「テーブルの上の荒野」「書斎の荒野」などとも使われた。いずれも観念性の強い荒野であり、若者が黙々と開拓すべき荒野として位置づけられていた。掲句の荒野もまた観念的ではあるが、克服すべき荒野ではなく、もはや自力ではどうにもならない対象としての荒野である。身体の弱ってきた「父」が、「電気毛布」をセットしてもらって眠っている。元気な身体であれば、普通の毛布ですむところが、「電気」的に温度をコントロールされた環境でしか寝られなくなっている。そんな父の様子を心配する娘には、方一丈ほどの電気毛布の「中」が荒涼たる野のように思われるのだった。夢を見ているとすれば、どんな夢なのだろうか。楽しい夢であってくれればよいが、傍らの作者には、とてもそうとは想像できない。あてもなく荒野を「さまよふ」父のイメージのみがわいてきて、哀れとも、いとおしいとも……。電気毛布の「電気」が、これほどまでに切なく響いてくる例を、私は他に知らない。『眩草(くらら)』(2002)所収。(清水哲男)


November 10112002

 吊るされて鴨は両脚揃へけり

                           土肥あき子

語は「鴨」で冬。食用に、両脚をくくられ吊るされている鴨だ。既に臓器は取りだされ、毛もむしられて丸裸にされている。両足を「揃へ」てくくったのは人間であるが、作者には、そうは見えなかった。こんなにも残酷で無惨な仕打ちを受けた後にあっても、鴨は最後の力を振り絞って、おのれの矜持を保つかのようにみずからがみずからの意志で脚を揃えたと見た。いや、そう見たかったのだ。なんという優しさだろう。一寸の虫にも五分の魂。掲句には、この言葉と呼応しあう弱者への深い共感が込められている。句を読んで、すぐに思い出したことがある。小学生の頃、学校から戻ると父が庭で焚火をしていた。焚火それ自体は珍しくもなかったが、見てしまったのだった。私が毎日餌をやったり運動をさせたりしていたニワトリの一羽が、焚火の上に逆さ吊りにされ、毛をむしられている姿を……。途端に、頭の中がくらくらっとなり、真っ白になった。夕飯はすき焼きだったけれど、母からいくらすすめられても「食べたくない」と頑強に言い張って、一口も食べなかった。この句を読むまでは思いもしなかったけれど、あのときのニワトリもまた、みずからの意志で両脚をきちんと整えていたに違いないと思えてくる。いや、やはりそう思いたいのだ。三十羽ほどいたなかで、ヤツがいちばん元気で恰好いい雄鶏だった。「朝日新聞」(2002年11月9日付夕刊)所載。(清水哲男)


November 11112002

 西へ行く日とは柿山にて別る

                           山口誓子

子の山の句ばかりを集めたアンソロジー『山嶽』(1990・ふらんす堂)の編者後書きに、こうある。「美濃に、富有柿を一山に植え盡した柿山がある。ここの山は日だまりで、十二月に入っても硬質で大粒の柿を樹に成らせる。葉が落ち盡した裸木に赤い美事な実は枯れ一面の中に鮮かである」(松井利彦)。想像しただけで、見事な情景が浮かんでくる。実際に、見てみたくなった。よく晴れた日に、作者が見ているのは午後の遅い時間だろう。句は「別る」と押さえていて、既に日が没し(かかっ)た状態とも読めるが、そうではあるまい。「別る」は、別れることが決まっている切なさをあらかじめ先取りしているのであり、それゆえに眼前の一刻の景色を大切にする気持ちの現われを表現している。なだらかな山の上の数えきれないほどの柿の実に、まだまんべんなく日があたっていて、その朱色がいっそう輝いている時間なのだ。しかし、秋の日はつるべ落とし。間もなく「西へ行く日」とは別れねばならない。そして同時に、この柿山の美しさとも……。なお、深読みに過ぎるかもしれないが、初見のときの私には「日と」が「ひと」とのダブルイメージとなって、染み入ってきた。いずれにせよ、極めて格調の高い名句と言えよう。(清水哲男)


November 12112002

 冬蝶の日向セルロイドの匂ひ

                           櫛原希伊子

春日和の庭に、どこからともなく蝶が飛んできた。成虫のまま越年する蜆蝶などもいるから不思議ではないけれど、さすがに飛び方は弱々しい。蝶もはかなげなら、蝶を招いた「日向」もはかなげである。見ているうちに、ふっと作者は「セルロイドの匂ひ」を感じたと言うのである。セルロイドはその昔、玩具の人形などによく使われたから、とくに女の子にとっては匂いも忘れられないだろう。青い目の人形は「アメリカ生まれのセルロイド」という歌もあった。余談ながら、男の子の玩具にはブリキ製が多かったので、匂いではなくて触感として残っている。でも、男の子にもセルロイドの匂いがわかっているのは、下敷きなどの文房具に使用されていたためだ。さて、掲句のユニークなところは、冬蝶のいる日向全体の雰囲気をよく伝えるために、視覚ではなく嗅覚をもって押さえたところだと思う。それも実際の場所には存在しない記憶の中の匂いだから、こちらも冬蝶のいる日向のようにはかなげである。はかなげではあるが、しかし、多くの人が懐しくよみがえらすことのできる匂いという意味では、強い説得力を持つ。すなわち、人には臭覚を通じたほうが、情景がよりよく見えてくるということも起きるということ。五官の区別は便宜的なものであって、私たちは目だけで物をみたり、鼻だけで匂いをかいだりしているのではないということですね。『きつねのかみそり』(2002)所収。(清水哲男)


November 13112002

 枯菊と言い捨てんには情あり

                           松本たかし

語は「枯菊(かれぎく)」で冬。アイルランド民謡に「The Last Rose of Summer」があり、日本では「埴生の宿」の作詞者でもある里見義が翻案して「庭の千草」とした。千草も虫の音も絶えてしまった寂しい庭に、ひとり遅れて咲いた白菊の花を感傷した歌だ。一番ほどには知られていないが、里見が書きたかったのはむしろ二番のほうだろう。「露にたわむや 菊の花/しもに おごるや 菊の花/ああ あわれ あわれ/ああ 白菊/人のみさおも かくてこそ」。この「ああ あわれ あわれ」が、季語「枯菊」の本意に込められた情感である。里見はこの情感を「人のみさお」のありように敷衍しているが、いささか説教くさい。対するに掲句の作者は、あくまでも枯れてもなおそこにある菊の美しさ(美の余韻)のみを言うにとどめている。そこに「あわれ」の情に溺れぬ潔さがある。ここで「情(なさけ)」とは、風情の意味だ。……と、私は読んだのだけれど、むろん俳句の読みに唯一無二の正解はない。あるいは「庭の千草」のように「人間も同じこと」と解釈する人がいても、間違いとは言えないし不思議ではない。虚子の「枯菊に尚或物をとどめずや」が、掲句の影響で詠まれたと指摘したのは山本健吉だが、虚子句は掲句よりもぐんと「庭の千草」寄りのような気がする。つまり、虚子は掲句を解釈する際に、枯菊そのものに宿る美の外に「或物」の存在を感じていたことになるからだ。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 14112002

 セーターの黒い弾力親不孝

                           中嶋秀子

語は「セーター」で冬。二十歳のときの作句だという。学生であれば、まだ親がかりの身。半人前でしかないわけだが、当人は一人前のような気になりはじめる年ごろだ。何かにつけて親の存在がうっとうしくなり、反抗的な態度も出てくる。「弾力」は、むろん自分の身体的な若さ、しなやかさを言っているのだけれど、それを「黒い」ととらえたところで、句が成立した。黒いのは単に着ているセーターの色にすぎないのだが、その黒色は身体のみならず精神までをも覆っているという発見。精神の若さ、しなやかさもが黒く染められているという自覚。このときに、ふっと「親不孝」を思った作者の感覚は、しかし、まだまだ初々しい。生意気ではあっても、イヤみがない。だから、微笑して読むことができる。作者二十歳の黒い心の中身は知らねども、そう読めるのは、我が身を振り返ってみると、思い当たる中身があるからでもある。振り返って、たとえばポール・ニザンが『アデン・アラビア』の冒頭に、「その時、僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しい時だなんて誰にもいわせない」と書いたフレーズは、あまりにも有名だ。さて、読者諸兄姉の二十歳のときは、どんなふうだったでしょうか。私は、もう一度「あの黒い時代」に帰ってみたいような気になりました。『陶の耳飾り』(1963)所収。(清水哲男)


November 15112002

 スケートの濡れ刃携へ人妻よ

                           鷹羽狩行

つて「家つきカーつきババア抜き」なる流行語があった。1960年ころのことだ。若い女性の理想的な結婚の条件を言ったものだが、流行した背景には、まだまだ「家なしカーなしババアつき」という現実があったからだ。掲句は、そんな社会的背景のなかで読まれている。嫁に行ったら家庭に入るのが当たり前だった時代に、共稼ぎでの仕事場ならばまだしも、遊びの場に若い「人妻」が出入りするなどは、それだけで一種ただならぬ出来事に写ったはずだ。しかも「スケート」を終えた句の人妻は、いかにもさっそうとしている。「濡れ刃携へ」は即物的な姿の描写にとどまらず、彼女の毅然たる内面をも物語っているだろう。行動的で自由で、どこか挑戦的な女。作者は、そのいわば危険な香りに魅力を覚えて、「人妻よ」と止めるしかなかった。「よ」は詠嘆でもなければ、むろん嗟嘆などではありえない。強いて言うならば、羨望を込めた絶句に近い表現である。この句が詠まれてから、まだ半世紀も経っていない。もはや人妻がスケート場にいても当たり前だし、第一「人妻」という言葉自体も廃れてきた。いまの若い人には、どう読まれるのだろうか。『誕生』(1965)所収。(清水哲男)


November 16112002

 蘭の香やむかし洋間と呼びし部屋

                           片山由美子

前に建てられた母方の実家に「洋間」があった。カーペットが敷かれ、シャンデリアが吊るされ、ソファが置かれ、ピアノと電蓄とがあった。大きなガラス窓が、障子に慣れた目には珍しかった。掛けられていた絵は、むろん「洋画」である。ただ、あまり使われていなかったようで、なんだかいつもヒンヤリとしていた記憶がある。ところで、作者の家には、まだこうした「むかし」ながらの洋間があるのだろう。他の部屋は和室だったわけだが、おそらく今ではそれらをリフォームして、みな洋式の部屋にして暮らしている。つまり、すべての部屋が洋間になってしまったわけで、とくに一室だけを「洋間」と区別して呼ぶことがなくなって久しいのだ。そんな部屋に、たまたま蘭を飾った。そしてその芳香に包まれた途端に、思い出されたのである。「むかし洋間と呼びし部屋」には、この「香」がよく漂っていたことが……。「蘭の香」は、同時に洋間そのものの香りでもあり、他の部屋にはない独特な香りだった。連れて、当時そのままの部屋のたたずまいと、往時そのままのあれこれのことを思い出し、しばし作者は懐旧の情に浸っている。香りが、思いがけない過去へと作者を誘ってくれたのだ。さて、句の季語は「蘭」であるが、歳時記によって季節の分類は異っている。夏によく咲くことから夏季とするものがあり、秋の七草のフジバカマを蘭と言ったことから秋季とするものなど、マチマチだ。しかし、現在では冬でも普通に蘭の花が見られる。というわけで、当歳時記としては無季に分類しておくことにした。ただし、掲句の作者は、前後に置かれた他の句から類推すると、秋季として詠んでいるようだ。「俳句研究」(2002年12月号)所載。(清水哲男)


November 17112002

 鶫焼しんじつ骨をしやぶるのみ

                           泉田秋硯

の句で鮮烈なのは「しやぶる」という行為だ。最近の日本人はまず、しゃぶることをしなくなったと思う。骨付きの肉をしゃぶる人などは、小さな子供を含めてもいなくなったのではなかろうか。私自身も、いつしかしゃぶることをしなくなっている。放送の仕事のために、よく喉飴は舐めるけれど、幼かったときのようにしゃぶったりはしない。そういう構えで食物を口に入れたのは、二十代も前半くらいまでだった。あのころは句のように、なんでも「しんじつ」しゃぶるか、しゃぶりたいのに見栄を張って我慢したかの、どちらかだった。いまどき「鶫焼(つぐみやき)」と言われると、なんだか高級料理みたいに思えるかもしれないが、なんのことはない、ごく普通の屋台にあった焼鳥である。それを「しんじつ」しゃぶっていたのは、たいがい安サラリーマンか学生だった。「つけ焼きにしているのだが何しろ肉は殆どない。焼鳥と大きな声で注文したものの、『これ何じゃい』という代物である。骨をしゃぶって『たれ』の味を舌で味わうだけのものであった。昔は日本もそれほど貧しかった」と、作者は近著(自句自解シリーズ『泉田秋硯集』牧羊新社)で書いている。よく、わかる。ここに掲句を持ちだしたのは、かといって、いわゆる飽食の時代を非難したりするつもりからではない。素朴に、「しやぶる」ことを忘れてしまった人間の未来のありように興味と関心を抱いたからだ。「しんじつ」、感性や思考に影響が出てくるだろう。いや、もう出始めているのかもしれない。季語は「鶫焼」=「焼鳥」なので、冬の「焼鳥」に分類しておく。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


November 18112002

 さやうなら笑窪荻窪とろゝそば

                           摂津幸彦

語は「とろゝ(とろろ)」で秋だが、冬にも通用するだろう。物の本によれば、正月に食べる風習のある土地もあるそうだから、「新年」にも。ま、しかし、作者はさして季節を気にしている様子はない。「荻窪(おぎくぼ)」は東京の地名。「さやうなら」と別れの句ではあるけれど、明るい句だ。「さやうなら」と「とろゝそば」の間の中七によっては、陰々滅々たる雰囲気になるところを、さらりと「笑窪(えくぼ)荻窪」なる言葉遊びを配しているからである。つまり作者は、さらりとした別れの情感を詠みたかったということだ。たとえば、学生がアパートを引き払うときのような心持ちを……。このときに「笑窪荻窪」の中七は言葉遊びにしても、単なる思いつき以上のリアリティがある。ここが摂津流、余人にはなかなか真似のできないところだ。笑窪は誰かのそれということではなくて、作者の知る荻窪の人たちみんなの優しい表情を象徴した言葉だろう。行きつけの蕎麦屋で最後の「とろゝそば」を食べながら、むろん一抹の寂しさを覚えながらも、胸中で「さやうなら」と呟く作者の姿がほほえましい。元スパイダーズの井上順が歌った「お世話になりました」の世界に共通する暖かさが、掲句にはある。蕎麦屋のおじさんも「じゃあ、がんばってな」と、きっとさらりと明るい声をかけたにちがいない。いいな、さらりとした「さやうなら」は。『陸々集』(1992)所収。(清水哲男)


November 19112002

 折詰に鯛の尾が出て隙間風

                           波多野爽波

語は「隙間風」で冬。「鯛の尾が出て」いる「折詰(おりづめ)」が配られているのだから、何か祝いの席なのだろう。大広間だ。いまのように暖房装置が発達していなかったころの日本間は、本当に寒かった。坐る場所によっては、小さな隙間から容赦なく風が入り込んでくるので辛かった。なにしろ「寸分の隙間うかがふ隙間風」(杉田久女)というくらいなものである。たとえすぐ傍らに火鉢が置いてあっても、何の役にも立ちはしない。運悪く、作者はそんな席に着いている。寒くてかなわん、早く終わってくれ。そんなときに限って、祝辞やら挨拶やらがいつ果てるともなくつづいていく。目の前の仕出し弁当も、どんどん冷たくなっていくようだ。やがてこの冷えきった折詰を開いてつつくのかと思うと、いよいよ寒さが募ってくる。出されたお茶などは、とっくのとうに冷えきっている。ときどき非難するような目で、隙間風の入ってくる方を見やったりする作者の姿までもが浮かんできて滑稽だが、当事者にしてみれば切実な問題なのだ。折詰の隙間からは、鯛の尾。部屋の隙間からは、冷たい風。この対比が、なおさらに滑稽感を誘ってくる。このように、気の毒だけれど滑稽に思えることは、他にもよくあることだ。それを短い言葉で的確に表現できる様式は、俳句をおいて他にはないだろう。『花神コレクション・波多野爽波』(1992)所収。(清水哲男)


November 20112002

 手袋にキップの硬さ初恋です

                           藤本とみ子

キップ
在のやわらかいキップ「軟券」に対して、昔の硬いキップは「硬券」という。改札で、パチンと鋏を入れてもらったアレだ(写真参照)。「手袋」をしていても、確かにキップの硬さが掌に感じられた。それを「初恋です」と言っているわけだが、現在進行形の初恋ではなくて、昔のことを思い出している。しかし「初恋でした」と言わないのは、作者が当時の少女の気持ちにすっかり戻っているからなのだ。そして、このキップの硬さには、二つのニュアンスが重ねられているのだと思う。一つは、初恋を覚えたころの時代背景を硬券に代表させ、もう一つは、手袋を通した硬い感触の心もとなさを表現している。きっと、毛糸の赤い手袋だろうな。具体的なシチュエーションはわからないけれど、電車の中で硬いキップを握りしめ、ずうっとその人のことを想っている少女の純情は伝わってくる。想っただけで緊張する思春期特有の心身のありようも、また手袋を通したキップの硬さに通じているようだ。いまのように、高校生が町中を堂々とペアで歩けるような時代ではなかった。でも、そんなころの初恋のほうが、いつまでも甘酸っぱい思い出として新鮮に蘇りつづけるのではなかろうか。これぞ、まさに「初恋です」。いい句です。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


November 21112002

 他所者のきれいな布団干してある

                           行方克巳

語は「布団(蒲団)」で冬。昔の農村の一光景だろう。すらりと読めば、村人たる作者が「きれいな布団」を干している「他所者(よそもの)」を白眼視している構図が浮き上がってくる。このときに「きれいな」とは、まことに底意地の悪い毒のある言葉だ。だが、この句はそんなに単純な構図を描いているわけではない。田舎に他所者として暮らした経験のある私には、作者の気持ちがよくわかるような気がする。すなわち、ここで他所者とは他ならぬ作者自身のことなのだからだ……。よく晴れた冬の日に、作者は越してきて間もない集落の家々を遠望している。どの家も布団を干しているが、なかでひときわ目立つ布団があった。我が家の布団だ。他の家の布団の地味な柄に比べると、どうしようもなく派手に写っている。そう見えた途端に、作者は他所者の悲哀を感じて、落ち込んでしまったに違いない。一日でも早く共同体に同化したいというのが他所者の切なる願いだから、これにはまいった。普段の立ち居振る舞いなど、なるべく目立たないように心がけてはいても、自宅の部屋の中ではごく普通に見えていた布団の柄が、かくも白昼赤裸々に他所者の家でしかないことを證しているとは……。「きれい」が恥であり、自嘲に通じる時代が確かにあった。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 22112002

 草々の呼びかはしつつ枯れてゆく

                           相生垣瓜人

なことを言うようだが、私はこの句に暖かいものを感じる。光景は、一見うら寂しい雰囲気のなかにあるけれど、お互いに声をかけあいながら「枯れて(滅びて)ゆく」ことなどは、私たち人間には決して起きないからだ。人間はてんでんバラバラに枯れてゆき、冬の「草々」は共に枯れてゆく。どちらが寂しいか……。作者は「呼びかはしつつ枯れてゆく」草々に、むしろ羨望の念すら覚えているのだと思う。これらの草々には、人間とは違って、それぞれの名前もなければ個性なんてものもない。すなわち、類としての存在として掴まれている。ここがポイントだ。もとより人間だとて類としての存在からは逃れようもないわけだが、名前があったり個性があると信じていたりするので、理屈上はともかく、すっかり類のことは忘れて生きている。「個」を見て「類」を見ず。だから、まごうかたなき人類の一員でありながら、自分の類に観念的にしか反応することができない。そこへいくと、草々は違う。句のように擬人化してみると、よくわかる。彼らは「共生」を観念としてではなく、実質実態として遂げているのだ。いつだって「呼びかはしつつ」生きて滅んでゆく。たとえおのれは枯れてしまっても、来春の新しい芽吹きが待っている。その希望を楽しめる。人間だって、類としては新しい芽吹きは常にあるくせに、それを楽しめない。自分一代で、何もかも終わりさ。「死んで花実が咲くものか」などと、それこそ変なことを言ったりする。まことに厄介だ。「冬枯」に分類。『微茫集』所収。(清水哲男)


November 23112002

 雪吊を見おろし山の木が立てり

                           大串 章

語は「雪吊(ゆきつり)」で冬。やがて来る雪の重みで、庭木の枝が折れないようにする冬支度の一つ。金沢兼六園の雪吊は、冬の風物詩としても有名だ。そんな雪吊の様子を、周辺の「山の木」が「見おろし」ている。山の木に心があれば、過保護に甘んじている庭の木を冷笑するであろうか。……などと、つい思ったりするのが人間の哀れなところで、何でもかでも人間世界に移し替えて読んでしまうのは悪い癖だ。作者は、確かに「見おろし」と山の木を擬人化してはいる。が、これを「見くだし」などと読まれないように、意図的にそっけなく「立てり」と押さえて、ただ邪心なく淡々と立っている姿を強調している。「立てり」に違う言葉を配すると、にわかに句が生臭くなる。さて、この句の最も魅力的なところは、雪吊一事をレポートするに際しての視野の案配である。目の前の事象を等身大に見据えつつ、すっとカメラを引いたような視野の広げ方が面白い。あくまでも、雪吊は作者の目の前にある。もしかすると、山はよく見えていないのかもしれない。その眼前の光景を、あっという間に点景に変化させてしまっている。カメラでこの広い視野を得るには、ちょっとしたテクニックが必要だ。が、人間にはそれがいらない。苦もなく、頭の中で調節が可能である。地味な句柄に見えるが、なかなかどうして、仕掛けはむしろ華麗と言うべきではなかろうか。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)


November 24112002

 つはぶきや二階の窓に鉄格子

                           森 慎一

キップ
語は「つはぶき(石蕗の花)」で冬。学名を「Farfugium japonicum」と言うそうだから、原日本的な植物なのかもしれない。しかし、いつ見ても寂しい花だと思う。蕗の葉に似た暗緑色と花の黄色との取り合わせが、いかにも陰気なのである。一茶が「ちまちまとした海もちぬ石蕗の花」と詠んでいるように、元来が海辺の野草だ。昨冬、静岡の海岸で見かけたけれど、寒い海辺に点々と黄が散らばっている様子は、なんとも侘しい風情であった。そんな暗い感じの石蕗を庭に植えるようになったのは、花の少ない冬季に咲く花だからだろう。よく、旅館の庭の片隅などで咲いている。これは四季を通じて花を絶やさぬサービス精神の発露とはわかるが、だが、何でも咲いていればよいというものでもあるまい。仕事での一人旅だったりすると、かえって気が滅入ってしまう。掲句は、そんな「つはぶき」の舞台にぴったりの情景を伝えている。「二階の窓に鉄格子」とはただならないが、かつての座敷牢の名残りでもあろうか。だとすれば、この家にはどんな暗い歴史があったのだろう。などと、通りすがりの作者は空想している。それもこれも、陰気な「つはぶき」が空想させているのである。写真は青木繁伸氏のHP「Botanical Garden」より縮小して借用した。この花の雰囲気が、よく出ている。『風丁記』(2002)所収。(清水哲男)


November 25112002

 釣具屋を畳むにぎわい冬鴎

                           五味 靖

んなに大きな店ではなくても、いざ「畳む」となれば大変だろう。店主としてはひっそりと店じまいにしたいところだろうが、何人かの手伝いも来ていて、それなりににぎやかになっている。大声や笑い声も聞こえてくる。店を閉める主人の感慨もへちまもどこへやら、こういうときの現場はむしろ活気に満ちた「にぎわい」を見せるものだ。一方では、港か河口に近い場所なので、そこここには鴎(かもめ)たちがうるさいくらいに、群れをなして飛び回っている。まるで、映画の一場面のような光景……。そして、この二つの「にぎわい」から浮かび上がってくるものは、表面的な「にぎわい」の奥底に沈んでいる寂寥感だ。一つの小さな歴史が閉じられるときの寂しさを、二つの「にぎわい」の中にとらえた作者の目は鋭くも的確である。それにしても「畳む」という言葉は面白い。元来は「折り返して重ねる」、すなわち「きちんと整理する」に近い意だろうが、句のように「閉じて引き払う」の意味で使ったり、あるいは「胸に畳んでおく」などと内面的な意味で機能させたりもする。子供のころに、時代劇映画で「畳んじまえっ」という言葉を知ったときには驚いた。人の命を「畳む」とは乱暴な話だが、直裁的な「殺っちまえ」よりも、殺人者の逡巡が「畳む」と言わせているのかなと思ったのは、もちろん大人になってからのことである。『武蔵』(2001・私家版)所収。(清水哲男)


November 26112002

 すずかけ落葉ネオンパと赤くパと青く

                           富安風生

ずかけ(鈴懸・プラタナスの一種)は丈夫なので、よく街路樹に使われる。夜の街の情景だ。ネオンの色が変化するたびに、照らされて舞い落ちてくる「すずかけ落葉」の色も「パと」変化している。それだけのことで、他に含意も何もない句だろう。でも、どこか変な味のする句で記憶に残る。最初に読んだときには「ネオンパ」と一掴みにしてしまい、一瞬はてな、音楽の「ドドンパ」みたいなことなのかなと思ったが、次の「パと青く」で読み間違いに気がついた。途端に思い出したのが、内輪の話で恐縮だけれど、辻征夫(貨物船)が最後となった余白句会に提出した迷句「稲妻やあひかったとみんないふ」である。このときに、井川博年(騒々子)憮然として曰く。「これが問題でした。これなんだと思いますか。大半のひとはこれを『た』が抜けているけど、きっと『逢いたかった』のだと読んだ。騒々子一発でわかりました。これは『あっ、光った』なんですね。実にくだらない。……」。同様に、風生の掲句も実にくだらない。今となっては、御両人の句作の真意は確かめようもないけれど、とくに風生にあっては、このくだらなさは意図的なものと思われる。確信犯である。一言で言えば、とりすました現今の俳句に対する反発が、こういう稚拙を装った表現に込められているのだと、私は確信する。おすまし俳句に飽き飽きした風生が、句の背後でにやりとしている様子が透いて見えるようだ。辻は、この句を知っていたろうか。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


November 27112002

 揚りたる千鳥に波の置きにけり

                           後藤夜半

語は「千鳥」で冬。『万葉集』の「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けばこころもしのにいにしへ思ほゆ」以来の昔より、詩歌や絵画の素材として愛されてきた。この句には様式化された花鳥画を見るような趣があり、非常に雅で美しい。ここで注目すべきは、「波の」の「の」の用法だろう。「波が」でもなく「波を」でもなく、「波の」としたことにより、絵が動いている。千鳥たちが揚がった後に、新しい波が寄せてくる。その動きが、何度もリフレインされている。この「波の」の「の」という言葉の働きをあえて分解するとすれば、「波が」と「波を」の「が」と「を」の機能が、「の」一文字に重ね合わされているとでも言うべきか。少しややこしいが、つまり読者は「の」一文字に「が」と「を」の機能を同時に感じ取るので、絵が動いて見えるというわけだろう。ああ、日本語は難しい。話は変わるが、鳥の専門家でこんなことを指摘している人がいたので、紹介しておく。「『千鳥』は俳句の季語としては冬に入れられているが、日本のチドリ類の生態をみると、かならずしもあたってはいないので注意を要する。また、海岸にたくさんの鳥が集まっているようすから『千鳥』とよぶこともありうるが、この場合はチドリ類のみでなく、同様の環境でみられるシギ類をもさしていると思われる。シギ・チドリ類の群れは冬にもみられるが、春と秋の渡りの時期に大きな群れがみられる」(柳澤紀夫)。掲句は『青き獅子』(1962)に所収。(清水哲男)


November 28112002

 易水に根深流るる寒さ哉

                           与謝蕪村

くなった友人の飯田貴司が、酔っぱらうとよく口にしたのが「風蕭蕭(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し、壮士一たび去ってまた還らず」という詩句だった。忘年会の予定を手帖に書き込んでいて、ふっと思い出した。「易水」は、中国河北省西部の川の名前だ。燕(えん)のために秦の始皇帝を刺そうとした壮士・荊軻(けいか)が、ここで燕の太子丹と別れ、この詩を詠んだという。このことを知らないと、掲句の解釈はできない。蕪村の句には、こうした中国古典からの引用が頻出するので厄介だ。さて、飯田君は後段の壮士の決然たる態度に惚れていたのだろうが、蕪村は前段の寒々とした光景に注目している。同じ詩句に接しても、感応するところは人さまざまだ。当たり前のようでいて、このことはなかなかに興味深い。作者の荊軻にしてみれば、むろん飯田君的に格好良く読んでほしかった。だが、蕪村は後段のいわば「大言壮語」を気に入ってはいなかったようである。だから、庶民の生活臭ふんぷんたる「根深(ねぶか)」を、わざと流している。壮士に葱は似合わない。せっかく見栄を切っているのに、舞台に葱が流れてきたのではサマにならない。この句については、古来その「白く寒々とした感じ(萩原朔太郎)」のみが高く評価されてきたが、そうだろうか。それだけのことなのだろうか。むしろ荊軻の生き方批判に力点の置かれた句ではないのかと、これまたふっと思ったことである。(清水哲男)


November 29112002

 原点に戻らぬ企業返り花

                           的野 雄

語は「返り花(帰り花)」で冬。小春日和の暖かい日がつづくうちに、どういう加減からか季節外れの桜や桃の花が咲くことがある。新聞の地方版に、写真入りで載ったりする。そんな花を見かけて、すぐさま「企業」のありように思いが飛んだところが哀しい。会社が倒産かそれに近い状態に陥り、三度も痛い目にあった私には、あながち突飛な連想とも思えない。しごく真っ当な飛躍と写る。もっとも、ここで作者は自分の属している企業のことを言っているのか、それとも企業一般のことを指しているのかはわからない。が、どちらでもよいだろう。企業は生き物だから、それ自体で刻々と変化していく。「原点」の構築に携わったのはまぎれもない人間だけれど、そうした人間の初発の精神とは関わりなく、法人格としての企業は人間を置き去りにしてまでも、みずからの延命に執心する。もっと言えば、企業は資本の論理以外の何ものも栄養にすることはできないので、そうならざるを得ない。いつまでも原点などにこだわっていては、身が持たないのである。そうした企業のたまさかの繁栄を、人間である作者は狂い咲きの花のようだと言っている。さらには、どんな人間の力をもってしても「原点に戻らぬ企業」の強圧に、なお唯々諾々と従っているおのれを哀しみ、自嘲してもいる。しかし、この不況の世の中。束の間であれ「返り花」が見られる企業は、まだよしとしなければ……。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


November 30112002

 脚冷えて立ちて見ていし孤児の野球

                           鈴木六林男

の「野球」の句は珍しい。が、どんなに寒かろうと、子供らが元気に野球をやった時代が、敗戦後の一時期にはあった。あのころの野球熱が、その後のプロ野球を育てたのだ。王や長嶋のようなスターがいたから、プロが繁栄したのではない。順序はまったく逆であって、句のような子供たちがいたからこそ、彼らも存分に活躍できたのである。このときの作者は三十歳そこそこだ。バターン・コレヒドール要塞戦で、負傷帰還して間もなくの句である。自註に曰く。「大学の附属病院では病気の戦災孤児を収容した。孤児たちはボロ布を丸めたボールで野球をしていた。脚から冷えて長く観ておれなかった。場所は、西東三鬼が勤務したことのある関西医大附属香里病院。京阪鉄道の香里園にある」。野球ができるくらいだから、病気もかなりよくなった「孤児」たちなのだろう。そこで野球をやっていれば「どれどれ」と立ち止まったのも、あのころである。孤児と野球。直接アメリカ軍と戦った元兵士にしてみれば、この取り合わせに複雑な感慨を覚えないわけはあるまい。無差別爆撃で、非戦闘員の彼らを孤児にしたのはアメリカだ。戦後いちはやく占領政策的に野球を復活させたのも、他ならぬアメリカという国である。眼前の孤児たちは、しかし無心に野球に興じている。「脚冷えて」きたのは単に寒気のせいだが、どこかそれだけのせいでもないような余韻の漂う句。国敗れて野球あり。などと、自嘲すらできない哀しい句。『谷間の旗』(1955)。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます