20160802句(前日までの二句を含む)

August 0282016

 香水に思い出す人なくもなし

                           清水哲男

俳満了まであと6日。今日が最後の火曜日です。読者であった10年と、書き手となった10年の思い出が錯綜します。パソコンにはショートカットキーなるものがあります。ことによく使われているのがundo(アンドゥ)と呼ばれる復活のコマンドです。左隅のCtrlキー(macだとコマンドキー)を押しながらZを押すと、ひとつ前の動作に戻ります。これを覚えておくと、うっかり消してしまった画面や、誤った選択をしたとき元に戻ることができるのです。人生にはたびたびこの復活のコマンドが使えたらどんなによいかと思う瞬間が訪れます。掲句で思い出される人とは、遠い過去の知り合いでしょう。香りの記憶はさまざまな思い出を引き連れて、やや強引に迫ってきます。下5の言い回しは作者特有の恥じらいと、すべて思い出すことへのためらいを感じさせます。作者はふっと横切る香りのなかで、復活のコマンドを使うことなく、おそらく固有名詞さえ思い出すことを封じて「なくもなし」と完結します。清水さんの俳句作品には〈四股踏んで雀の学校二学期へ〉〈だるまさんがころんだ春もやってきた〉のような相好が崩れる愛らしいものと、掲句や〈釣忍指輪はずして女住む〉〈糸の月人に生まれて糸切り歯〉のような臈長けた色香が混在することも特徴です。ときに甘やかに、ときにクールに、絶妙な匙加減で読者を楽しませてくれるのです。『打つや太鼓』(2003)所収。(土肥あき子)


July 3172016

 雲湧いて夏を引っ張る左腕なり

                           清水哲男

緑色の球場の向こうには、入道雲が湧いている。真夏の甲子園。エースの左腕は、予選から数えれば10試合以上、投球数は1000球を超えて夏のチームを引っ張ってきた。そればかりではない。地元からは、何十台ものバスを連ねた応援団を呼び寄せ、高校野球ファンたちを球場に誘い込み、全国津々浦々の食堂・床屋・お茶の間のTVの前に人々を釘付けにし、スポーツ紙の売り上げを伸ばしている。酒場では男たちが、金田正一・鈴木啓示・江夏豊・工藤公康といった往年の左腕を語り、「山本昌は甲子園に出られへんかったから肩を消耗せずに50歳まで投げられたんや」とか、「それに引きかえ近藤真一は甲子園で投げ過ぎて入団の時には肘の反りがなかったんやで」とか、「それ 考えると工藤はええ野球人生やな」など、野球になると口数が多くなる男たちの夏の話題も引っ張る左腕。今年の甲子園では、そんな左腕が現れるだろうか。ところで、野球は左利きに有利なスポーツだ。バッターなら、右利きより一歩分一塁ベースに近い。イチローが右打者だったら、大リーグ3000本安打は無理だっただろう。足で稼いだ安打が多いですから。では、投手はどうだろうか。詳しいところはわからない。右も左も投球の質そのものに違いはないだろう。ただし、打撃有利な左打者に対する左腕は、球の出所が見えにくいのは周知の通り。そう考えると、左腕はやはり有利であるようだ。そんなことよりも、事はもっと単純で、左腕はかっこいいのである。私が少年野球をやっていた時、チームは全員右利きだった。左腕は、TVでしか見られない憧れだったのだ。さて、もう一度、掲句を読んでみて下さい。この五七五は、「振りかぶって、第一球を、投げました」のリズムに重なります。『打つや太鼓』(2003)所収。(小笠原高志)


July 3072016

 ふたたびは聞く心もてはたたがみ

                           稲畑汀子

たたがみの、はたた、は擬音語ともいわれるが、激しく鳴りとどろく雷のことをいう。掲出句、直接表現されていない最初の激しい雷の音が聞こえる。突然の雷には誰もが驚かされるが、室内にいれば命にかかわることはまずない。そうなると恐怖心は確かにありながら、どこか自然の力を目の当たりにすることを望むような心理も働く。聞く心、という一語には、二回目は驚かないという理屈をこえた作者の自然に対する思いが感じられる。この句は句集『さゆらぎ』(2001)より引いたが、そのあとがきに「二十一世紀はもう一度、「人間も自然の一部である」という根本に立ち返り、人間と自然の調和を考えなければならない」とある。二十一世紀になってからの十数年間のさまざまを思い返すと、漠然とした憂いに覆われる現在である。(今井肖子)




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