どうなったか。ギリシャ国民投票の結果が気になる朝です。(哲




20150706句(前日までの二句を含む)

July 0672015

 涼しさは葉を打ちそめし雨の音

                           矢島渚男

が子供だったころには、降り出せば屋根にあたるわずかな雨の音からも、それがわかった。でも、いまでは部屋の構造そのものが外の雨音を遮断するようにできているので、よほど激しい降りででもないかぎりは、窓を開けてみないと降っていることを確認できない。これを住環境の進歩と言えば進歩ではあるけれど、味気ないと言えばずいぶんと味気なくなってきたものだ。もっともたとえば江戸期の人などに言わせれば、大正昭和の屋根にあたる雨音なども、やはり味気ないということになってしまうのだろうが……。そんななかにあっても、「葉を打つ雨音」など、おたがいに自然の営みだけがたてる音などはどうであろうか。それを窓越しに聞くのでなければ、これは大昔から不変の音と言ってよいだろう。昔の人と同じように聞き、揚句のように同じ涼しさを感じることができているはずである。芭蕉の聞いた雨音も、これとまったく変わってはいないのだ。と、思うと、読者の心は大きく自由になり、この表現はそのまま、また読者のものになる。『百済野』所収。(清水哲男)


July 0572015

 チングルマ一岳霧に現れず

                           友岡子郷

に一度、チングルマを見られる人は幸せです。高山植物の代表格であるチングルマは、本州なら3000m級、北海道なら2000m級の山に、夏の短い期間にしか咲かない花です。登山者は、年に一度の逢瀬のために重荷を背負って山を登ります。なぜ、山に登るのか。そこに山があるから。いや、むしろ、チングルマに会いに行くためです。掲句の登山者は、高度を上げて登ってきて、ようやくチングルマの見える地点に到達しました。チングルマは、森林限界よりも高い標高の稜線や、尾根のお花畑に自生して います。頂上もテント場も間近です。しかし、霧に隠れて「あの山」が見えない。岳人の心には、造形美への希求があって、思い描いてきた山稜の形態が霧に隠れているとき、白い霧に拒絶されながらも、眼前のチングルマには、いとおしい視線を注ぎます。夏、チングルマは裏切らない。遠景の無情と、近景の有情。私事ですが、釧路の高校の三年間、山岳部員として毎夏、五泊六日で十勝岳、トムラウシを経て大雪山旭岳まで縦走していました。25kgのキスリングは肩に食い込み、毎日十数kmの行程をのっしり脚を踏ん張って登り下りました。大雪山の雪渓を削って粉末ジュースをふりかけると、かき氷ができます。そこを越えるとチングルマの群生が迎えてくれました。旭岳は間近で、白い花弁の黄色い小さな花 が咲いています。『風日』(1994)所収。(小笠原高志)


July 0472015

 絵にしたき程に履かれし登山靴

                           中村襄介

物画を描こうと花瓶の花と向き合ったり、旅先でスケッチブックを開いて目の前に広がる風景を写したりする時は、描こうという気持ちが先にある。それとは別に、ふと描いてみたいという衝動に駆られる時があるがそれは、ひょいと覗いた路地裏だったり、無造作に積まれた野菜だったり、およそ描かれることを意識していないようなものが多い。この句の登山靴はかなり履き込まれていてそれが今、静かに脱がれ置かれている。どれほどの大地を踏みしめてきたのか、二つと同じものはないその形は、持ち主と共に過ごした時間の形でもあり、描きたい、と思った作者に共感する次第である。『山眠る』(2014)所収。(今井肖子)




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