攻守チグハグな阪神。我が生活までひきずられないように。




2015年5結蛛i前日までの二句を含む)

May 1852015

 行く春について行きたる子もありし

                           矢島渚男

句の「子」は、赤ちゃんよりはもう少し大きい子だろう。作者の知っている子だが、そんなによく知っていたわけでもない。たぶん近所の子、あるいは友人か知人の子で、その死は伝聞によってもたらされたくらいの関係か。春の終り。生きとし生けるものの生命が盛んになる夏を待たずに逝った子のことを思って、作者の心はいわば春愁のように沈んでいる。しかし沈みながらも、作者は悼む気持ちをできるだけ相対化しようとしている。実際、子供というものは、習性と言ってよいほどに何にでもついていきたがる。だからこの子は、きっと春についていっちゃったんだと、そう思い決めることにしたのである。これまた、苦いユーモアにくるんで刻んだ心やさしい墓碑銘と言ってよい。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


May 1752015

 箸置きを据ゑて箸置く薄暑かな

                           岩淵喜代子

の美学です。主は、箸置きと箸を膳という平面に据え置いて、会食の起点を設置しています。それは、客のお手元です。今のところ他には何もない。料理はまだ運ばれていません。何もない空間だからこそ、料理はつぎつぎに運ばれる余地があり、客も主も箸を使い箸を置き、自由にふるまえます。演出家のピーター・ブルックに『何もない空間』という著作があります。舞台上で俳優が演技の自由を獲得するためには、大道具・小道具・舞台美術を最小限にすべきだという演出論です。たしかに、彼の舞台でよく使われる小道具は一本の長い棒で、それは時に空間の仕切りとなり、時に槍になります。一本の棒があれば、俳優と観客との想像力によって舞台空間は可動的になります。むしろ、豪奢な大道具はそれが足かせとなって、舞台を固定的にすることがあり、ピーター・ブルックは、著書の中でそれに警鐘を鳴らしています。そんなことを思い返しながら掲句を読むと、一膳の箸は、一本の棒のごとくシンプルゆえに自在です。挟み、運び、切り、刺す。客と主の所作には、もてなされもてなす遊びの心がありましょう。その舞台が膳であり、箸は巧みに動きつくして箸置きに置かれます。さあ、紗袷せに身を包んだ粋客がいらっしゃいました。やや汗ばんだ肌を扇子であおぎながら、正座して膳につきました。『白雁』(2012)所収。(小笠原高志)


May 1652015

 さんさんと金雀枝に目があり揺れる

                           佐藤鬼房

関先に金雀枝の大ぶりの甕のような鉢が置いてあり花盛りだ。ほとんど伸び放題でどんどん咲いて散っているが、くたびれてぼんやり帰宅した時その眩しさを超えた黄に迎えられるとほっとする。我が家の金雀枝は黄色一色だが、掲出句のものは赤が混じっている種類だろう、おびただしい花の一つ一つが目のように見えている。一般的に、小さいものがぎっしり、という状態はそれに気づくとちょっとぞわっとするものだ。筆者にとってはピラカンサスや木瓜の花などがその類なのだが、作者にとってこの金雀枝はそうではない。金雀枝の風に遊ぶ自由な枝ぶりと初夏の光を湛えた花の色が、さんさんと、という言葉を生んで明るい。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)




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