October 212014
月の夜のワインボトルの底に山
樅山木綿太
人がワインを手にしたのは古代メソポタミア文明までさかのぼる。醸造は陶器や革袋の時代を経て、木製の樽が登場し、コルク栓の誕生とともにワインボトルが普及した。瓶底のデザインは、長い歴史のなかで熟成中に溶けきらなくなったタンニンや色素の成分などの澱(おり)を沈殿させ、グラスに注ぐ際に舞い上がりにくくするために考案されたものだ。便宜上のかたちとは分かっても、ワインの底にひとつの山を発見したことによって、それはまるで美酒の神が宿る祠のようにも見えてくる。ワインの海のなかにそびえる山は、月に照らされ、しずかに時を待っている。〈竜胆に成層圏の色やどる〉〈父と子の落葉けちらす遊びかな〉『宙空』(2014)所収。(土肥あき子)
October 202014
よく見える幼子に見せ稲の花
矢島渚男
小さな稲の花を見ている。いや、見ようとしている。が、おそらく少し老眼気味になってきた目には、細部までははっきりと見えないのだろう。そこでかたわらにいた幼い子にそれと教えて、「これが稲の花だよ。よく見ておきなさい」と指さしている図だと思う。むろん幼い子が稲の花に関心を抱くことはなかろうが、作者はとにかく「よく見える目」の持ち主に、見せておきたかったのである。つまり作者は幼子の目に映じているはずのくっきりした花の姿を想像して、その想像から自分にもくっきりと見えている気分にひたりたかったということだ。ちょつとややこしいけれど、この種の視覚的な行為に限らず、五感すべてにおいて、老いてきた身にはこのような衝動が走りがちになる。老いた人と幼い人との交流において、私たちはしばしば幼い人の行為を微笑をもって見守る老人の姿を見かける。あれはまたしばしば、掲句のような状態を受け入れようとしているが故の微笑なのだ。老いを自覚してきた私には、そのことの幸せと辛さとが分かりはじめている。『延年』(2003)所収。(清水哲男)
October 192014
袖のやうに畑一枚そばの花
川崎展宏
そばの花弁は白い。その真ん中は、赤い雄しべが黄色い雌しべを囲んでいる。作者は、そば畑を着物の袖にたとえています。それは、そば畑の面積がささやかであることを伝えていると同時に、着物の袖をイメージさせることで、白く咲く花弁の中の赤と黄色を繊細な生地の柄として伝えています。直喩を使うということは、単なる言葉の置き換えではなく、むしろ、対象そのものに対して写実的に接近できる方法でもあることを学びます。掲句のそば畑は、家族で新そばと年越しそばを楽しむほどの 収穫量なのかもしれません。「畑一枚」という語感が「せいろ一枚」にも通じて平面的で、そばの花咲く畑を袖という反物にたとえた意図と一貫しています。なお、森澄雄に、「山の日の照り降り照りや蕎麦の花」があり、山脈が近い高原の気象の変化を調べとともに伝えています。掲句は平面的な静の句ですが、こちらは、空間の中で光が移ろいます。『夏』(1990)所収。(小笠原高志)
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