西村麒麟の句

March 0432014

 鶯を鶯笛としてみたし

                           西村麒麟

話ではなにかにつけ美しい声が重宝された。人魚姫は声と引替えに人間の足をもらい、塔の上のラプンツェルは狩りをしていた王子の耳に歌声が届いた。王を死神から守ったのは小夜啼鳴(ナイチンゲール)の囀りであり、小夜啼鳴の別名は夜鳴鶯である。日本に生息する鳴き声が特に美しいとされる三鳴鳥は鶯、大瑠璃、駒鳥だそうだが、ことに鶯は古くから日本人に愛され、江戸時代には将軍家に特別に鶯飼という役職があったほどだ。掲句にも鶯の鳴き声に聞き惚れ、その囀りに惑わされた人間の姿が見えてくる。鶯を飼いならすには収まらず、笛として独占したいという作者に、魅了された者の悪魔的な展開が予感される。『鶉』(2014)所収。(土肥あき子)


April 0342014

 学生でなくなりし日の桜かな

                           西村麒麟

学や社会人になる喜びと桜を重ねた句は山ほどあるけど、この句の感慨を詠んだ句はあるようでない。既視感のある視点をずらした表現に読む者をひきつける切なさがある。学生から社会人へ移行する見納めの桜。入学式ごと、学年があがるごと見てきた桜ともお別れ。自由で気楽な学生時代が終わるということは、親に依存してきた長い子供時代の終わりでもある。これからは自分の力で世間を渡っていかなければならない。先の見えないのはいつの時代も一緒かもしれないが、通勤途上で会う新入社員とおぼしき人たちの顔つきを見ていると、これから社会に出て行く喜びより不安の方が大きいのではないかと思ってしまう。『鶉』(2013)所収。(三宅やよい)


May 3152014

 涼しくていつしか横に並びけり

                           西村麒麟

我が家のピクチャーレールには<縁柱細り涼風起りけり>(星野立子)の軸がかかっている。渋い紫の表装、さらりと書かれた句中の、涼風、は見るからに涼しく気持ちがよいので夏はこれをかけて過ごしているが、墨で書かれた文字は表情があり味わい深い。梅雨入り前のこの時期、夏の涼しさを感じるにはまだちょっと早いかもしれないが、日ごと育つ緑を見ていると、清々しい涼風が吹き抜ける掲出句を思う。涼し、にこんな表情を持たせた句を他には見たことがなく、この句を思い出すたびに作者の幸せを心地よい余韻として感じるのだ。向かい合って両手をつないで見つめ合っているより、横に並んで同じ方を見ながら片手をつないでいる方が幸せは続く、そんな言葉があったな、などとも。『鶉』(2013)所収。(今井肖子)


July 2472014

 どの部屋に行つても暇や夏休み

                           西村麒麟

い昔に味わった夏休みの退屈さが実感を持って思い出される句。毎日毎日、窮屈な学校から解放されて朝寝はし放題。漫画を読もうが朝から家を飛び出して遊びに行こうが、テレビを見ようが好きにしていい天国のような生活も二,三日たてば飽きてくる。子供の出来ることなんて限られている。朝ご飯を食べたらする事もないので二階に上がってみたり、座敷で寝転んでみたり。部屋を変えてみても暇なことに変わりはなく、午後の時間は永遠かと思えるほど。掲句を読んで、子供の頃嬉しいはずの夏休みがだんだんつまらなくなってゆく漠然とした不満を言い当てられたら気がした。季節の巡りは螺旋を描いて毎年やってくる。遠い日の自分の中の名付けがたい感情をすくい取って俳句にする。その細やかな視線に共感した。『鶉』(2013)所収。(三宅やよい)


December 10122015

 黄金の寒鯉がまたやる気なし

                           西村麒麟

った冬の沼のふちにたたずんでいると、ぽっかり口をあけた鯉がどんよりした動きで近寄ってくる。寒中にとれる鯉は非常に味がいいというので「寒鯉」が季語になっているようだ。歳時記を見るとだいたい動きが鈍くてじっと沼底に沈んでいる鯉を描写した句が多いように思う。掲載句では「黄金」「寒鯉」「が」というガ行の響きの高まりに「また」と下五を誘い出して、何がくるかと思いきや「やる気なし」と脱力した続きようである。むだに立派な金色の鯉がぼーっと沼に沈んでいる有様が想像されてなんともいえぬおかしみがある。『鶉』(2013)所収。(三宅やよい)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます