越谷市での竜巻。予知は出来なかったんだな。天災には勝てぬ。(哲




2013萩蛛i前日までの二句を含む)

September 0392013

 秋の日に干す沖海女の命綱

                           桑原立生

女には「磯海女」と「沖海女」があり、磯海女は比較的浅い海を潜るため一人でも可能だが、沖海女は船で沖に出てからの作業なので、船を操り、合図を送る相手が必要となる。海女は海中の作業のなか、呼吸の限界で浮上の合図を船上へと送り、合図を感じたらパートナーは命綱を一気に引き上げる。20メートルにもなるという命綱を引き上げるには、わずかなタイミングが命取りになるため、命綱の多くは家族が担当するという。文字通り命をつなぐ綱の実物は驚くほど華奢である。透き通るような秋の日差しのなか、干されるなんのへんてつもないロープの名が命綱だと知った瞬間、それはかけがえのないものとなる。へその緒という命綱で母とつながっていた彼方の記憶が、ふと脳裏をよぎる。『寒の水』(2013)所収。(土肥あき子)


September 0292013

 こときれてゆく夕凪のごときもの

                           五十嵐秀彦

集では、この句の前に「眠りつつ崩るる夏や父の肺」が置かれているので、同じく父上の末期の様子を詠んだものだろう。島崎藤村が瀕死の床にあった田山花袋に「おい、死ぬってどんな心持ちだ」と呼びかけた話が残っているが、私も年齢のせいで人の死に際には関心が高くなってきた。夢の中で自分の死をシミュレートしていることに、はっと気づいて目覚めたりもする。夏の夕暮れの海岸地域では、海からの風が嘘のようにぱたっと落ちて、息詰まるような暑さに見舞われるが、人生の最後にもまたそのような状態になるのだろうか。つまり、傍目には死の病の苦しみがばたっと止んだように見え、しかし高熱だけは残っていて、そこから死が徐々に確実に忍び寄ってくる。と、作者にはそう思えたのだ。他者の死にはこれ以上深入りできないわけだが、この「風立ちぬ いざ生きめやも」とは正反対のベクトルがはっきりしているという意味で、私にとっては印象深い抒情句となった。『無量』(2013)所収。(清水哲男)


September 0192013

 海風に筒抜けられて居るいつも一人

                           尾崎放哉

正十四年八月二十四日。放哉は、小豆島、南郷庵に入ります。翌年、四月七日午後八時、ここで死去。享年四十二。この七ヶ月半に残されたのは、二百二句。庵の入り口の石段を三つ四つ上ると、低い塀の上に大松が一本枝を垂れていて、この大松の根方に、荻原井泉水筆の「入れものが無い両手で受ける」の小さな句碑があります。『入庵雑記・海』冒頭を抜粋すると「庵に帰れば松籟颯々、、至つてがらんとしたものであります。芭蕉が弟子の句空に送りました句に『秋の色糠味噌壺も無かりけり』とあります。、、全くこの庵にも、糠味噌壺一つ無いのであります。、、時々、ふとした調子で、自分はたつた一人なのかな、と云ふ感じに染々と襲はれることであります。八畳の座敷の南よりの、か細い一本の柱に、たつた一つの脊をよせかけて、其前に、お寺から拝借して来た小さい低い四角な机を一つ置いて、、一日中、朝から黙つて一人で坐つて居ります。」文中の「一人、一つの、一つ、一日中、一人」という単数形に、詩人を生きた証を読みます。掲句は「海風に筒抜けられて居る」で切れます。人は、口から肛門までが一本の管ですが、放哉は、自身を一本の筒ととらえ、海風が自身の内側をなでて通過する実感で、自身が「居る」ことを確かめています。『笈の小文』の風羅坊が、また一人、ここで海風を受けて居ます。『尾崎放哉全集』(1972)所収。(小笠原高志)




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