甲子園大会が終わると、日ごとに秋色が濃くなってきますね。(哲




2012年8句(前日までの二句を含む)

August 2482012

 蠅の舌強くしてわが牛乳を舐む

                           山口誓子

あ、やっぱり誓子だなあ。誓子作品についてよく言われる即物非情の非情とは、これまで「もの」が負ってきたロマンを一度元に戻すことだ。蝶は美しい。蛾は汚い。黒揚羽は不吉。ぼうふらは汚い。蠅は汚い。みんな一度リセットできるか。それが写生ということだと誓子は言っている。子規が言い出して茂吉もそう実践している。生きとし生けるものすべてに優しさをとかそんなことじゃない。「もの」をまだ名付けられる前の姿に戻してまっさらな目でみられるか。この「強くして」がいいなあ。「生」そのものだ。『戦後俳句論争史』(1968)所載。(今井 聖)


August 2382012

 瓜ぶらり根性問はることもなし

                           山中正己

リンピックも終わり、銀座ではメダリスト達のパレードもあった。連日の熱戦を楽しませてもらったものの敗れた選手の立場を思うと「大変だなぁ」と思うことたびたびだった。「メダルをとれずにすみませんでした」と泣きながら謝っていた柔道の選手がいたが国の代表になって「根性を問われる」ことはしんどいことだ。その点、ぶらりとぶら下がって風に吹かれる瓜は気楽なものだ。瓜と言ってもいろいろあるが「ぶらり」なのだから胡瓜かヘチマだろうか。支えの棒や組み立てた棚へ蔓をからませて気が付けば「食べてください」とばかりにおいしそうな実をぶらさげている。「根性を問われる」ことも「叱咤激励」されることもなく身を太らせて気楽なものである。掲句がそんな瓜の在り方に羨ましさを感じている作者の気持ちの反映であるとすると、怠け者の私なぞも同感である。『地球のワルツ』(2012)所収。(三宅やよい)


August 2282012

 バリカンに無口となって雲の峰

                           辻 憲

憶を遡れば、小学生の時はいつも母がバリカンでわがイガグリ頭を刈ってくれた。(中学生になってからは、母による「虎刈り」がいやで、隣村の床屋さんまで出かけた。プロによる理髪は気持ち良かった。)頭髪が伸びると「ゴンマツ頭はみっともねエ」と母が言い、畳にすわらされてバリカンでジョキジョキ……。時々母の手のリズムが狂うと、バリカンが頭髪を食うから「痛ッ!」と叫ぶ。そうすると、バリカンで頭をゴツンとやられる。「タダでやってもらって、男の子は我慢しろ!」。相手は凶器(?)を持っているのだから、下手に逆らえない。「無口」になって我慢せざるを得なかった。あげくの果てが「虎刈り」である。掲句でそんな少年の日のことをありありと思い出した。憲さんの「無口」も実体験であろう。外はカンカン照りで、雲の峰(入道雲)がモクモク。一刻も早く飛び出して行って、友だちと_取りとか水遊びでもしたいのに、しばらくは神妙に我慢していなければならない忍耐の時間。イガグリ頭とバリカンの取り合わせが懐かしい。「虎刈り」の時代も過去の思い出話となってしまった。國井克彦に「バリカンや昭和の夏のありにけり」がある。憲は征夫の実弟で、句会ではいつも高点を獲得している。憲の句に「本郷の猫のふぐりのみぎひだり」がある。「OLD STATION」14号(2008)所収。(八木忠栄)




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