November 222011
やすませてもらふ切株冬あたたか
宮澤ゆう子
座ることができる大きさの切株とは、どれほどの樹齢なのかと調べてみると、松の場合、直径10センチで樹齢50年、40センチで100年〜200年が目安という。大きな切株であればさらに樹齢を重ねており、掲句の「やすませてもらふ」に込められた擬人観もたやすく理解できる。大木であった頃に広げていた枝に羽を休める小鳥や、茂る葉陰を走り回っていたリスは消えてしまったが、今では旅人が憩う切株として姿を変えた。本格的な冬を間近に控えた明るい空気のなかで、数百年を過ごした歳月に、今腰掛けているのだという作者の背筋の伸びるような思いが伝わる。長い時間をかけ大木となった幹はあっけなく切り倒され、年輪をあらわにした切株となり果てた。とはいえ、無惨な残骸とはならず、あたたかな日を吸い込みながらまた長い時間を過ごすのだ。『碧玉』(2009)所収。(土肥あき子)
November 212011
冬青空毎日遠くへ行く仕事
興梠 隆
良く晴れた冬の朝、出勤時を詠んだ句だ。いつもと同じ遠い職場に出かけてゆく。そのまんま、である。それがどうしたの、である。しかし、そこまでしか読めない読者は不幸だ。この句の力は、そのまんまの中に、一種の隠し味を秘めているところにある。「遠くへ」は単なる距離感を示しているだけではなくて、同時に時間性を持ち合わせており、それが無理なく読者に伝えられている。寒いけれども、空は晴朗だ。いつものようにその空の下に出て行くときに、作者はふっと来し方行方のことを思っている。毎日さしたる意識もせずに遠い仕事に出かけてきたこれまでの生活というもの、そしてこれからもつづいていくであろう人生の道筋。そういう時間性、歴史性が一瞬明滅して、冬空に消えてゆく感慨を、「遠くへ」の語に語らせているというわけだ。そしてここには、格別な希望もなければ悲観もない。ただそのように自分が生きていることへの確認があるだけである。こういう気持ちは、ときに誰にでも湧いてくるだろう。ただ、誰も書きとめてこなかっただけである。作者名の読みは「こうろき・たかし」。『背番号』(2011)所収。(清水哲男)
November 202011
弱き身の冬服の肩とがりたる
星野立子
なんとなく読み過ごしてしまいそうになりますが、本日の句に学ぶことは多いと思います。まず、人を見る目のあたたかさと柔らかさに驚いてしまいます。読めば読むほど、恐ろしいほどに眼差しの深さを感じるのです。「弱き身」とは、ことさら身体の弱い人のことを指しているのではないのでしょう。だれでもがその根っこのところでは、びくびくと生きているのです。その弱い精神を包み込むようにして着た服は、鎧のように肩がとがっているのかもしれません。すぐれた句を詠む、というよりも、すぐれた眼差しを持つことが、まずは目指されなければならないことなのだと、教えてくれているようです。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社) 所載。(松下育男)
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