甲子園球場前の店でビールを飲みながらテレビ観戦したことも。(哲




20110814句(前日までの二句を含む)

August 1482011

 戦争が廊下の奥に立ってゐた

                           渡辺白泉

ころで、明日の「終戦記念日」は秋の季語ですが、「戦争」はどうなのでしょうか。「時の流れ」がどの季節にも限定できないように、「戦争」も同様に、季節からまぬがれているのかもしれません。だからこの有名な句を前にしても、特段、季節の風を感じません。あるいは、生きている者の親密な息のぬくもりが感じられません。ただ廊下があって、その奥があって、そこに戦争が立っているのだなと、書かれたままに読むだけです。それでもその無表情な戦争が、頭の中を去ってゆかないのはなぜなのでしょうか。どれほど巧みに感情を込めた表現も、どんなに大きな叫び声も、とても歯が立たないもの。文学という器には到底押し込めることのできないものを表現しようとすれば、こうしてただ、そのものを立たせているしかなかったのでしょう。見事な句です。『現代俳句の世界』(1998・集英社) 所載。(松下育男)


August 1382011

 朝顔の前で小さくあくびする

                           岸田祐子

が家には門がなく、玄関の前に目隠し代わりの木製のフェンスがある。その内側に母が先日、買い求めてきた朝顔の鉢を三つ置いた。蔓を絡ませるにはフェンスの一本一本が太すぎるのでは、と思ったが今や器用に絡んで毎朝咲いている。いわゆる団十郎というのだろうか、茶色がかった渋い赤に白い縁取りの花が気に入っているが、赤紫も藍色も、あらためて見ると風情のある花だ。早朝、朝顔の鉢の前にしゃがみこんでいくつ咲いているか数えたり、しぼんでしまった花殻で色水を作ったりしたことをふと思い出させるこの句。何の説明も理屈もなく、朝の空気に包まれた穏やかな風景がそこにある。「花鳥諷詠」(2011年3月号)所載。(今井肖子)


August 1282011

 吾家の燈誰か月下に見て過ぎし

                           山口誓子

者の位置はどこに在るのだろう。自分が家の中に居るとすれば、外の闇の中を過ぎる人影が視認できたとしてもその人が自分の家の中の燈を見たとまでは断定できぬであろう。自分が外に居て第三者が「吾家」の燈を見ているところを目撃したとするなら燈と通りかかった人と自分の位置関係ははっきりするが、自分が自分の家の燈を外から客観的に見ているのも変な状況である。そんなことを考えているうちにこの句は過ぎしのあとに「か」を補ってする鑑賞がいいのではないかと思い到る。吾家の燈誰か月下に見て過ぎしかというふうに。夜の道を行き交う人が、「私」の居る家の燈を見て過ぎたであろうと思っている。留まるものつまり今ここに存在する「吾」の前を過ぎていく諸人がいる。優れた句は日常を描いて寓意に到る。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)




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