August 082011
西瓜喰ふ欠食児童のやうに喰ふ
佐山哲郎
どんなふうに食べようが勝手とはいうものの、西瓜を上品にスプーンですくって食べている人を見ると、鼻白む。あれで美味しいのだろうか。句のようにかぶりついたほうが、よほど美味いと思うんだけど。ところでこの句は、現代だからこそ成立する句だと思った。そこらじゅうに「欠食児童」がいた時代だったら、洒落にもならないからだ。もはや思い出のなかにしか存在しない「欠食児童」。西瓜にかぶりつきながら、苛烈な空腹を微笑とともに追懐することができるから、句になっているのである。私も学校に弁当を持っていけない子だった。弁当の時間に何人かの「欠食児童」といっしょに校庭に出て、ただぼんやりしていた時間は忘れられない。大人になってからのクラス会で、そんなぼくらに自分の弁当をわけるべきかどうかと悩んでくれていた友人がいたことを知った。「でも、オレは分けないことにした。きみらのプライドが傷つくと思ったからね」。こう聞かされたとき、私は思わず落涙した。お前はなんて優しくて偉い奴なんだ…。傷ついていたのは、欠食児童の側だけではなかったのだと、深く得心したのだった。今日立秋。「西瓜」はなぜか秋の季語である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(清水哲男)
August 072011
行く夏の倉と倉との間かな
永島靖子
季節の中で、一番惜しまれて去ってゆくのが夏です。行く夏、とひとことつぶやけば、だれしも胸に込み上げてくるものを思い出すことができます。生命の、最も派手やかな瞬間の後の、虚脱感のようなもの。本日の句、倉と倉との間は、それほどに広くはないと思われます。地面には、小さな砂利が敷き詰められてでもいるでしょうか。同じ形に並んだ倉の、白壁と白壁に挟まれた長細い空間。その中ほどに立ち止まって、うつむいて物思いにふけっている人の姿が、はっきりと見えてくるようです。それからゆっくりと顔をあげ、空をじっと見上げてみれば、特段何が悲しいというわけではなくても、自然ときれいな涙があふれてくるものです。『角川俳句大歳時記』(2006・角川書店)所載。(松下育男)
August 062011
畳より針おどり出ぬ蠅叩
齋藤俳小星
創元文庫の『現代俳句全集 第一巻』(1953)を読んでいた。八月六日の句に出会えないものか、と思ったのだがなかなかめぐり会えず、それとは別に今や非日常となった季節の言葉を詠んだ句の数々に興味を惹かれた。掲出句の蠅叩、少なくとも都会ではとんと見かけない。子供の頃は、夏とセットだった蠅。蠅取り紙のねばねばや蠅帳は、仄暗い台所の床の黒光りとこれまたセットで思い出される。思いきり叩くと、畳の弾力が蠅を仕留めた実感を伝えるのだが、その勢いで、畳から縫い針が飛び上がったという瞬間、作者の一瞬の表情が見える。針の数を数えなさい、落ちている針を踏んで血管に入ったらあっという間に脳へ行って死んでしまうのよ・・・そう言われて、子供心に恐かったのを思い出すが、畳に落ちた針は、特に畳の目にはまってしまうとなかなか見つからない。ちなみに、作者の俳号、俳小星(はいしょうせい)は、「はい、小生」、という名告りの語呂合わせだとか。〈灯を消せば礫とび来ぬ瓜番屋〉〈家の中絹糸草の露もてる〉(今井肖子)
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