December 262010
ともかくもあなた任せのとしの暮
小林一茶
クリスマスが終われば毎年、私の勤める会社の玄関先では、早々にツリーが取り払われ、翌日には新しい年を迎える飾り付けに変わっています。毎年の事ながら、作業をする人たちの忙しさが想像されます。私事ながら、長い間お世話になった会社を今年末で終える私にとっては、いつもの年末ではなく、健康保険だ、年金だ、雇用保険だで、手続きに忙しい日々が続いています。しかしこちらのほうは、あなた任せにするわけにもいかず、慣れない用紙に頭をひねっているわけです。さて、本日の句です。あいかわらずとぼけていて、わかったようでどうもよくわからない句です。「あなた」をどのように解釈するかによって、家庭の中のことを詠んだ句なのか、あるいは世の中すべてを見渡している句なのかが決まるのでしょう。どちらにしても、「ともかくも」この句を読んでいると、なぜか安心してしまいます。年末だからといって、そうあくせくする必要はない。どうせなるようにしかならないのだからと、だれかに肩をたたかれているような、ほっとした気持ちになってきます。『俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)
December 252010
ざらと置くロザリオもまた冬景色
柚木紀子
クリスチャンでない私にはわからないのだとは思いながら、この句のロザリオの存在感が、12月25日という本来のクリスマスをあらためて感じさせてくれた。ロザリオは、その数珠のひとつひとつを手繰って祈るものだという。今そこに置かれたロザリオ、しんと静まっている窓の外の気配、かすかに揺れているろうそくの炎、それらすべてを作者の深い祈りと敬虔な心が包みこんでいる。キリストが誕生したという雪に覆われた遙かな冬、大地が眠る中何かが目覚めた遠いその瞬間を、思わず想像させられる。『麺麭の韻』(1994)所収。(今井肖子)
December 242010
蛇の肉わかちて二寸なおくねる
秋山牧車
牧車さんは大本営陸軍情報参謀。大将山下奉文指揮下のフィリピン方面軍に終戦一年前に派遣されマニラ山中にて米軍に抗戦のあと終戦で投降。捕虜となる。この句の真骨頂は「二寸なおくねる」。銃後において戦火の前線を想像で描いた作品はいわゆる「戦火想望俳句」とよばれるが、それらは戦争の悲惨や前線の様子が常識と類型的先入観の域を出ない。体験していない事柄には事実に伴う夾雑物が入らない。表現が扁平になるのである。実はその夾雑物こそがリアルの根源。では俳句はフィクションではだめなのか。だめだとはいわないが、想像だけでこの夾雑物を出せるかどうか。この句のテーマが飢えの果てに蛇を食うことだとすると、そこまでは想望俳句でも詠める。問題はそのあと。「二寸なおくねる」は体験したものにしか詠めない。倫理的な正義やいわゆるそれらしい「想望」にまどわされてはならない。俳句の力はこういう「細部」にこそ宿る。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(今井 聖)
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