December 172010
腹の立つ人にはマスクかけて逢ふ
岡本 眸
一句の中の季語の扱いが従来的な季節感を踏襲しているか、そうだとすれば、その中にどう作者の色が付加されているかいないか、或いは、季語を季節感と切り離して用いているか、ならば季節感がないのに季語を用いるところに伝統詩型の要件に対する作者の理解や工夫がどう生かされているか。そういう点も俳句評価の一角度だと僕は思うのだが、例えばハナから無季肯定の評者にはこういう角度は評価の外なのであろう。この句のマスクには冬期の季節感はありや。顔を隠すという意味においては、例えばコンビニ強盗の目出し帽と同じではないだろうか。その用途は四季を問わない。冬季の風邪を予防し自らの菌の飛散を防ぐというマスクの本意をどう「自分の事情」に引きつけてこなすか、そこに季語必須派の工夫、すなわち真の実力が見えてくる。新潮文庫『新改訂版俳諧歳時記』(1983)所載。(今井 聖)
December 162010
ふるさとの母には猫のお取り巻き
内田真理子
季節を表す言葉はないが、陽のあたる縁側に何匹もの猫に取り囲まれているおばあさんの姿が思い浮かぶ。家族は遠い町へ出て行ってしまって一人でくらしているけれど、畑で採れた白菜を干したり、枯葉を掃いて焚火をしたりしているとうちの猫やら近所の猫やらが足元にすりよってくる。そんな猫たちはふるさとの母親になくてはならないお友達であり、家族なのだろう。「取り巻き」と言えば力のある人にコバンザメのようにすりよってゴマをする、あまりいい意味にはつかわれない。だけどそれが猫で、しかも「お」を付けたもったいぶった言い方が猫たちと母のほのぼのとした関係を想像させる。作者は柳人。「ともだちになれると思うなつめの木」「歳月を馬に曳かせて油売り」『ゆくりなく』(2010)所収。(三宅やよい)
December 152010
鮒釣れば生まれ故郷の寒さかな
佐々木安美
決して楽しい釣りではなく、寒さのなかで一人じっと釣糸を垂れている図であろう。首尾よく鮒を釣りあげたことによって、なぜか故郷の寒さが忍ばれる。うん、納得できる。この場合、生まれ故郷で釣っているのではあるまい。安美の「生まれ故郷」は山形県。この寒さは故郷だけでなく、わが身わが心境の寒さでもあるのだと思われる。故郷とは、ある意味で寒いもの。鮒を釣りあげた喜びにまさる、身の引き締まるような一句ではないか。「釣りは鮒に始まって鮒に終わる」と言われる。新刊詩集『新しい浮子 古い浮子』(2010・栗売社)の冒頭の詩「十二月田」の第一行は「詩を書くのをやめてから/フナを釣り始めた」と始まり、「フナが/新しい友だちということではないのだが/フナを/釣らないではいられない」「無言で/フナを釣っている」といったフレーズがある。この詩のパート3は、掲句と「長竿の底より遠い冬の鮒」など俳句四句のみで構成されている。理由はわからないが、安美はしばらく詩を離れていて、これが二十年ぶりに刊行した詩集である。抑えられたトーンで、忘れがたい世界が展開されている。詩人が十年やそれ以上沈黙する例はある。(私も十年間、個人詩誌を出さなかったことがあった。)短詩型の場合は結社があるから、毎月必ず作品を出さなければならないから、出来は悪くても書きつづけるーーと岡井隆が最近の某誌で語っていた。そのあたりにも、詩と短詩型の相違があるかもしれない。(八木忠栄)
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