January 242009
静寂はラグビーボール立ててより
松村史基
ラグビーのゴールポストはH字形で、2本のポールの幅は5.6メートル、高さは国立競技場で13メートル。地面から3メートルの高さにクロスバーが渡してある。地面に置いたボールを蹴ってゴールをねらうゴールキックの場合、ポールの間、クロスバーの上を通過すれば得点。ゴールに上限はなく、要するに2本のポールは、空に向かって伸びる平行な直線なのだ。キッカーはひたすら5.6メートルの隙間をねらい、空へ向かってボールを蹴る。そこにはサッカーのようなディフェンスとのかけひきはなく、自分との勝負。この句には、そんなラグビーのキックの本質がきちっとあり、切り取られている一瞬の静寂が、その前後の激しいプレーや、突き抜けた冬空をも感じさせる。ラグビーの句というと、冬のスポーツとしての激しさやスピード感、男らしさなどを詠んだものが多く、静寂は、というこの句、昨年朝日俳壇で出会って以来心に残っていたが、2008年の朝日俳壇賞受賞。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2009年1月12日付)所載。(今井肖子)
January 232009
着ぶくれてこの世の瑣事も夕焼す
櫻井博道
忙しくかかわっていることが、ふと瑣事に思えてくることはよくある。人間、糊口をしのがねばならぬのは言わずもがなだけれども、それにかかわらないことにもどれほど意を砕いて日々を送っていることか。「瑣事」ということへの発想は一般的だが、病臥の歳月を重ねた作者が平成三年、六十歳で世を去る前の感慨であることを知ると、「着ぶくれて」に現在只今の「生」の実感が込められ、「夕焼」にこの世への賛歌やエールが贈られているように思う。「こんなつまらないことにかかずらっている」という否定的な自覚ではなくて、「この世の瑣事」に没頭できる時間と存在への肯定である。『季語別櫻井博道全句集』(2009)所収。(今井 聖)
January 222009
雪靴をもてセザンヌの前に立つ
田川飛旅子
初雪の報はあったが、私の住む地域ではまだ雪を目にしていない。寒は早く明けてほしいけど、雪を見ずに冬が終わってしまうのは寂しい。掲句は都会では珍しく雪の降り積もった日のひとコマだろう。ぎしぎし雪を踏みしめてきた靴で作者はセザンヌの絵の前に立っている。先日ブリジストン美術館にある自画像を見たときこの句を思い出した。絵にはところどころ白いキャンパス地がそのまま残されていた。それは塗り残しというより、絵を引き立てるタッチそのものなのだろう。水彩や墨で描く日本画では余白の部分が色や光の役回りを担う。しかし油絵で空間演出としてキャンパス地をそのまま使った人はセザンヌ以前にいなかったのではないか。掲句の「雪靴」は多分登山靴のようにずっしりと重い靴だろう。セザンヌの絵のタッチと雪靴のところどころに残る雪が響き合う。生々しく実感に訴えてくる表現は飛旅子の得意とするところだが、この句にも彼のその特色がよく生かされているように思う。『現代俳句全集』第六巻(1959)所収。(三宅やよい)
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