対馬康子の句

January 1712008

 国の名は大白鳥と答えけり

                           対馬康子

鳥が各地の湖に飛来し越冬するシーズン、遠い灰色の空からみるみる大きくなる白鳥の一団が湖に着水する様はさぞ見事なことだろう。「大白鳥」という答えはどこから来たのだろうか。白鳥が旅立った国を問われたのか、質問を受けた人の出身地を問われていたのか、考えれば考えるほどその謎は深い。質問がよくわからなくてとんちんかんな返事をしてしまったとも考えられる。もしそうだとしてもこの答えはしごくロマンチックだ。「国の名」と「大白鳥」と関係なさそうなものが直結することで、夜空の白鳥座を連想したり、飛来する白鳥の故郷であるシベリアやロシアの大地を思ったりする。渡り鳥である白鳥は「ここまではロシア」「ここは中国」と、国を区別して飛んでくるわけではない。白鳥にとっては海を越えるとはいえ、ひとつづきの土地であり、北から南の湖へ渡るという本能に従っているだけである。ヒトが普段の生活で意識している国名というものがどれだけ便宜上のものであり、地球的規模からいえば無用なものであるという事実がかえってこの答えから感じられる。日常よくみられる受け答えの勘違い、その呼吸に合わせて広がりのある世界を描き出した句だと思う。『対馬康子集』(2003)所収。(三宅やよい)


August 0582008

 白服の胸を開いて干されけり

                           対馬康子

い空白い雲、一列に並んだ洗濯物。この幸せを象徴するような映像が、掲句ではまるで胸を切り裂かれたような衝撃を与えるのは、単に文字が作り出す印象ではなく、そこに真夏の尋常ではない光線が存在するからだろう。白いシャツの上に自ら作りだす黒々とした影さえも、灼熱の太陽のもとでは驚くほど意外なものに映る。この強烈なエネルギーのなかで、なにもかも降参したように、あるものは胸を開き、あるものは逆さ吊りにされて、からからと乾いていくのである。しかし、お日さまをよく吸って、すっかり乾いた洗濯物の匂いは格別なもの。最近発売されている柔軟剤に「お日さまの香り」というのを見つけた。早速試してみたらどことなくメロンに近いものを感じるが、お日さまといえばたしかにお日さま。それにしても太陽の香りまで合成されるようになっている現代に、ただただ目を丸くしている。〈異国の血少し入っている菫〉〈初雪は生まれなかった子のにおい〉〈死と生と月のろうそくもてつなぐ〉『天之』(2007)所収。(土肥あき子)


March 1732015

 春星へ回転木馬輪をほどく

                           対馬康子

遠に回り続ける回転木馬が、輪を解くことがあるとしたら。掲句はそんな想像から始まっている。春の夜にうっとりと灯る星空こそ、回転木馬たちの帰るところなのではないかと思う気持ちに強く共感する。先週、ピエロの句を鑑賞したが、回転木馬もまた楽しいような悲しいようなもののひとつである。日本最古の回転木馬は東京としまえんにある「カルーセルエルドラド」だという。1907年ドイツの名工によって作られ、ヨーロッパ各地を巡業したあと、アメリカのコニーアイランドの遊園地に渡り、1971年としまえんにやってきたという。100年の時を駆け続ける木馬の列に、うるんだ星のまたたきがやさしく手招いているように見えてくる。馬たちが春の空へと帰ってしまう前に、ひさしぶりに乗ってみたくなった。〈春の雲けもののかたちして笑う〉〈能面の目をすり抜けて蘖ゆる〉『竟鳴』(2014)所収。(土肥あき子)


March 2832015

 春の雲けもののかたちして笑う

                           対馬康子

れを書いている今日は朝からぼんやりと春らしいが、空は霞んで形のある雲は見当たらない。雲は、春まだ浅い頃はくっきりとした二月の青空にまさに水蒸気のかたまりらしい白を光らせているが、やがていわゆる春の雲になってくる。ゆっくり形を変える雲を目で追いながらぼーっとするというのはこの上なく贅沢な時間だが、この句にはどこか淋しさを感じてしまう。それは、雲が笑っているかのように感じる作者の心の中にある漠とした淋しさであり、読み手である自分自身の淋しさでもあるのだろう。他に<逃水も死もまたゆがみたる円周 ><火のごとく抱かれよ花のごとくにも  >。『竟鳴』(2014)所収。(今井肖子)




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