May 102007
そらまめのみんな笑つて僧のまへ
奥坂まや
そらまめは莢が空にむかって茎につくことから「空豆」。莢のかたちが蚕の繭に似ていることから「蚕豆」の字があてられるようになったという。「おたふく豆」は、そらまめの中でも特に大粒の実の品種を指すようだ。この句の面白さはそらまめがお多福の顔になってコロコロ笑っている景と、講話を聴くため僧の前に並んでいる人達が笑っている情景の二つが同時に含まれているように思えるところである。これは上五の「の」が軽い切れを含むとともに、「みんな」という不特定多数を表す言葉に掛かっていくからだろう。インターネット事典ウィキペディアによると、そらまめは花に黒い斑点があり、豆にも黒い線が入っている。そのせいか古代ギリシャやローマでは葬儀の食物に用いられたそうだ。ピタゴラスはそらまめの茎が冥界とつながっており、莢の中には死者の魂が入っていると考えたという。僧侶はあの世とこの世の橋渡しを司る人。そらまめと僧の結びつきを考えると、この情景はこの世の情景を描きながらも、日常からちょっとはみ出た次元の世界を描いているように想像できる。時空を超えたその世界にそらまめの「笑い」を響かせると、その笑い声はただ明るい童話的な笑いでなく、不気味な哄笑の雰囲気もあり、それもまた面白く感じられる。『縄文』(2005)所収。(三宅やよい)
May 092007
船頭も饂飩うつなり五月雨
泉 鏡花
特にヘソマガリぶるつもりはないけれど、芭蕉や蕪村の五月雨の名句は、あえて避けて通らせていただこう。「広辞苑」によれば、「さ」は五月(サツキ)のサに同じ、「みだれ」は水垂(ミダレ)の意だという。春の花たちによる狂躁が終わって、梅雨をむかえるまでのしばしホッとする時季の長雨である。雨にたたられて、いつもより少々暇ができた船頭さんが、無聊を慰めようというのだろうか、「さて、今日はひとつ・・・・」と、うどん打ちに精出している。本来の仕事が忙しいために、ご無沙汰していたお楽しみなのだろう。雨を集めて幾分流れが早くなっている川の、岸辺に舫ってある自分の舟が見えているのかもしれない。窓越しに舟に視線をちらちら送りながら、ウデをふるっている。船頭仕事で鍛えられたたくましいウデっぷしが打っていくうどんは、まずかろうはずがない。船頭仲間も何人か集まっていて、遠慮なく冷やかしているのかもしれない。「船頭やめて、うどん屋でも始めたら?」(笑)。あの鏡花文学とは、およそ表情を異にしている掲出句。しかし、うどんを打つ船頭をじっと観察しているまなざしは、鏡花の一面を物語っているように思われる。鏡花の句は美しすぎて甘すぎて・・・・と評する人もあるし、そういう句もある。けれども「田鼠や薩摩芋ひく葉の戦(そよ)ぎ」などは、いかにも鏡花らしく繊細だが、決して甘くはない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
May 082007
親戚のような顔して黴育つ
鎌田次男
ペニシリンを始め、味噌、醤油、チーズなど、深く感謝に値する黴(カビ)は数あれど、清潔志向の現代の生活ではアレルギー疾患を引き起こす一因などとも関係し徹底して嫌われ、愛でるために栽培している人はまずいないと思われる。掲句ではそのにっくき黴が「親戚のような顔」で育っているという。俳句で使用する「ような」や「ごとく」には、ごく個人的な感情に通じるものがあり、読者の「わかる」と「わからない」が大きく分かれるところでもあるが、座敷の片隅で発見した黴がまるで「遠縁の者です。厄介になります」とばかりに、大きな顔でもなく、かといって遠慮するわけでもなく、ひそやかにのさばっていく様子はまさしく「親戚のような顔」であろう。黴が生えるという嫌悪すべき緊急事態が、一転してあっけらかんと罪のない日常に溶け込んだ。親戚が集まる冠婚葬祭の場では、どうしても思い出せない叔父や叔母や従姉妹が、ひとりやふたりいるものだ。しかし確かにどこかで見覚えもあり、どことなく似通うこの係累の特徴も備えている。結局、最後まではっきりとした関係はわからないまま「親戚の人」として存在する人物がいたことなども懐かしく思い出している。『亀の唄』(2006)所収。(土肥あき子)
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