具志堅用高が亀田三兄弟や協栄ジムを批判。古巣にであれ、言うべきことは言う勇気。




20060629句(前日までの二句を含む)

June 2962006

 カップ麺待つ三分の金魚かな

                           上原恒子

語は「金魚」で夏。うん、たしかにあの三分という待ち時間は、なんとも中途半端である。作者は仕方なく「金魚」鉢に目をやっているわけだが、この句を読んで、では他の人たちは、この間何をして待っているのだろうかと興味が湧いた。いや、それよりも自分は普段どうしているのかな。「カップ麺」を食べるときは、たいてい家に一人でいるときだ。発売当時(1971年)ならばまだしも、一家そろってカップ麺などという情景は、あまりいただけない。でも、三分間では、タバコに火をつけて一服やるには短かすぎる。しかし、何もしないでじっとカップ麺の蓋を眺めているには長過ぎる。かといって、他にすることも思いつかない。それこそ仕方がないから、金魚を飼っていない私は、たいてい壁の時計を見てきたようだ。別に正確に三分間を待とうというのではないのだけれど、なんとなく三分という時間のことが頭にあるので、それで結局は時計を見る習性がついてしまったのだろう。この句の手柄は、誰もが持つそうした日常的な些細な無為の時間を、あらためて思い起こさせるところにある。俳句の題材は、見つけようと思えば、どこにでもあるという見本のような作品だと思う。ところで、こうした無為の時間を気にするのは、どうやらメーカー側も同じのようで、日清食品のホームページには、こんなコーナーができている。一分間で出来上がりというスパゲッティ「スパ王」用のキッチン・タイマーならぬ「美女タイマー」だ。一応なるほどとは思ったけれど、なんか見てるだけでせわしない。それに、すぐ飽きてしまう。他に、妙案はないものだろうか。『正午』(2001)所収。(清水哲男)


June 2862006

 金盥あるを告げ行く白雨かな

                           斎藤嘉久

語は「白雨(はくう)」で夏。夕立のこと。「白雨」と書いて「ゆうだち」と読ませる場合もあるが、掲句では音数律からして「はくう」だろう。一天にわかにかき曇り、いきなりざあっと降ってきた。こりゃたまらんと、作者は家の中へ。と、表では何やらガンガンと金属を叩く音がする。あ、金盥(かなだらい)が出しっぱなしだったな……。と思っているうちに、ざあっと白雨は雨脚を引いて、どこかに行ってしまった。すなわち、白雨が金盥のありどころを告げていったよ、というわけだ。最近は金盥も使わなくなっているので、もはや私たちの世代にとっても懐かしい情景だ。実際にこういう体験があったかどうかは別にして、昔はどの家にも金盥があったから、私たちの世代はこの句の情景を実感として受け止めることができる。ただそれだけの句なのだが、こういう詠みぶりは好きですね。句に欲というものがない。作者にはべつに傑作をものしようとか、人にほめられようとか、そういった昂りの気持ちは皆無である。言うならば、その場での詠み捨て句だ。その潔さ。作者の略歴を拝見すると、大正十三年生まれとある。句歴も半世紀に近い。その長い歳月にまるで裏ごしされるかのようにして達した一境地から、この詠みぶりは自然に出てきたものなのだろう。欲のある句もそれなりに面白いけれど、最近の私には、掲句のような無欲の句のほうが心に沁みるようになってきた。ついでに言っておけば、最近の若い人に散見される無欲を装った欲望ギラギラの句はみっともなくも、いやらしい。やはり年相応の裏打ちのない句は、たちまちメッキが剥がれてしまい、興醒めだからである。「俳句界」(2006年7月号)所載。(清水哲男)


June 2762006

 戦争も好きと一声かたつむり

                           宇多喜代子

語は「かたつむり(蝸牛)」で夏。「えっ」と、作者は耳を疑った。でも、かたつむりははっきりと「一声」言ったのだ。「戦争も好き」と……。見かけはおっとりと平和主義者のような雰囲気なのに、選りに選って「戦争」が好きだとは。読者も少なからぬショックを受けてしまう。むろんこれは作者が言わしめた台詞なのではあるけれど、その中身の意外性が、かえって最後にはさもありなんと読者を納得させることになる。敷衍すれば、これは人間にも当てはまることなのであって、突然その人のイメージとは大きくかけ離れたことを言われると、一瞬めまいを感じたりするが、結局はその人の真実のありどころを示されたのだと納得することになる。あらためて、まじまじとその人の顔を見返すことになる。そのあたりの人心の機微をよく知る作者ならではの、大人向きの句と言えるだろう。掲句を読んで、川崎洋の短い詩「にょうぼうが いった」を思い出した。「あさ/にょうぼうが ねどこで/うわごとにしては はっきり/きちがい/といった/それだけ/ひとこと//めざめる すんぜん/だから こそ/まっすぐ/あ おれのことだ/とわかった//にょうぼうは/きがふれては いない」。句のかたつむりとは違い、こちらは奥さんの「うわごと」である。でも詩人が書いているように、うわごとだからこそ、そこに奥さんの本音があるのだと納得できたのだ。しかし考えてみると、本当は寝言か寝言じゃないかというようなこととは関係がなく、両者に共通しているのは「まさかの一言」なのであって、私たちはみな、そんな「まさか」には苦もなく説得されてしまう「弱点」があるのではなかろうか。あるとき谷川俊太郎さんが「奥さん、ホントにきちがいって言ったの」と川崎さんに聞いたら、「ホントなんだよ」と、川崎さんは真顔で答えてたっけ。「俳句」(2006年7月号)所載。(清水哲男)




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