内田美紗の句

December 17122004

 天気図のみな東向く雪だるま

                           内田美紗

語は「雪だるま(雪達磨)」。正規の「天気図」ではなく、新聞などに載る天気予報図だ。天気の状態を晴天ならば太陽、曇天なら雲、雪なら「雪だるま」といった具合に、小さな絵をつけてわかりやすくしてある。その雪だるまが、みな「東」を向いているというのだ。もともとの画像が一つだから、何個並ぼうとも同じ方角を向いていて当たり前なわけだけれど、なんだかお互いが示し合わせて東を向いているように見えて可愛らしくもあり、可笑しくもある。と、ここまでの解釈で止めてもよいのだが、しかし、もう一歩進めてみるのも面白い。というのも、私の知る限り、この種の天気図で東向きの雪だるまを見たことがないからである。あらためていくつかの予報図を調べてみたが、みな正面を向くか、心持ち西を向いているものばかりだった。正面向きはよいとして、心持ち西向きなのには理由がある。日本全図で雪の多い地方は地図の東側(右側)にあるから、雪だるまマークは当然東側で多用される。したがって、雪だるまが東(右)を向いていると、みな日本各地にそっぽを向く感じになってしまう。そこでマークを描く際には、やはり秩序感覚からして西向きにしたほうが良いという意識が働くはずだ。だから私などは掲句を読んだ途端に、えっと思った。こりゃあ相当に偏屈なおじさんが作った図だなと感じたのだ。実際に東向きのマークを載せた天気図があるのだろうか、あるとすれば極めて珍しい。それとも、これは作者が素知らぬ顔で読者に仕掛けた悪戯なのだろうか。ご当人に聞いてみたい気がする。『魚眼石』(2004)所収。(清水哲男)


March 2232006

 にこにこと人違ひさる春の宵

                           内田美紗

語は「春の宵」。見知らぬ人が、親しげに「にこにこと」話しかけてきた。私にも何度か経験があるが、相手が酔っていないかぎりは、こちらの名前を言えばすぐに「人違ひ」だとわかってもらえる。作者の場合もあっさり誤認が解け、その人はバツが悪そうに離れていったのだが、しかし人違いされて悪い気分ではない。「春の宵」のちょっぴり浮いた気分と「にこにこ」顔はごく自然な感じがするし、あまりに自然な間違い方がかえって印象的で、作者もまた思わずもにこにこと笑顔を返したのではなかろうか。春宵ゆえの人情の機微が、よく捉えられている。ところで人違いというのではないけれど、テレビ局の廊下などを歩いていると、本当はまったく知らない人につい会釈してしまうことがある。相手はアナウンサーやタレントなどで、こちらは映像でよく見ているので知っているつもりになって挨拶してしまうわけだが、これもまたバツが悪いことに変わりはない。しかし、なかにはこちらの勘違い会釈に、訝しげな顔もせず「いや、どうも」などと気軽に挨拶を返す人もいたりして、吃驚する。そういう人はおそらく、誰に対してもそうすることに決めているのだろう。私にも放送体験があるのでわかるのだが、毎日のように初対面の人に会うので、とても覚えきれるものではない。そこで一度でも会ったことのある人に失礼にならぬようにと、とりあえず誰かれの区別無く挨拶する人も出てくるというわけだ。商売商売で、思わぬ苦労もあるものである。『内田美紗句集』(2006・現代俳句文庫)所収。(清水哲男)


November 02112006

 秋の暮通天閣に跨がれて

                           内田美紗

天閣は大阪新世界にそびえる高さ100メートルのタワー。東京タワーと同じ設計者で、作られた時期も同じ頃なのに、まったく違う外観を呈している。両方ともその都市のシンボルであるが、東京タワーは赤いドレスを着て澄まして立っていて少し近寄りがたいが、通天閣は派手な広告をお腹につけて色の変わる帽子をかぶり、庶民的で気さくな雰囲気がある。足元には将棋場、歌謡劇場もある。展望台でビリケンのとがった頭をなでてジャンジャン横丁の串カツを食べて帰る。何でもありの天王寺界隈の賑わいにどこかもの寂しい秋の夕暮れがせまってくる。古来「秋の暮」は秋の夕暮れの意と、秋の季節の終わり(暮の秋)の両義を含みながら曖昧に用いられてきたらしい。「今では秋の日暮れどきだけに使う」(『新歳時記』河出文庫)となっているが、どうだろう。掲句のように大きな景には夕暮れの景色とともに一つの季節が終りつつある気分をも重ね合わせてみたい。通天閣が跨(また)ぐと擬人化した表現に大阪の街並みを見下ろしている通天閣の大きさと頼もしさが的確に表現されている。さらに「て」の止めに、暮れはやき今、ここで通天閣に跨がれている作者の安心が感じられるように思う。『魚眼石』(2005)所収。(三宅やよい)


September 1192008

 天高しみんなが呼んで人違ひ

                           内田美紗

方になると雷鳴とともに大雨が降りだす油断のならない空模様が続いていた東京もようやくからりと乾いた青空が広がり始めた。そんなふうに空気が澄みわたって見晴らしのいいある日、駅の集合場所でなかなかやってこない一人を待ちわびている。「あっちからくるはずよ。」みなで同じ方向を眺めていると、遠くからやって来る人影が。背格好といい身なりといい、あの人に違いない。おのおのが手を振り、名前を連呼する。手を挙げて合図しているのに、近付いてくる人はつれなくも知らん顔。「こっちに気づいていないのよ。」確信を持った意見になおもみな声を張りあげ、大きく手を振る。やって来る人の顔がはっきり見える距離になって、人違いだったとわかる。ああ、恥ずかしい。それでもみんなと一緒だから、バツの悪さも救われる。(間違えられた人のほうがどんな顔ですれ違っていいんだか当惑気味かもしれないが)これが一人だったらどれだけカッコ悪いことか。でも大きな声を出して人違いしたのも行楽に浮き立つ気持ちと仲間がいたからこそ。これがどんより曇った天気で、一人だったら顔を合わすまでおとなしくしていたでしょうね。『魚眼石』(2004)所収。(三宅やよい)




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