新宿で忘年会第一弾。毎年おなじみのメンバーだけれど、ついに一年間ご無沙汰の人も。




2004年11月27日の句(前日までの二句を含む)

November 27112004

 訣れきて烈火をはさむ火箸かな

                           神生彩史

時記編纂の立場だけから言うと、こういう句は実に困ってしまう。季語はないので無季句にははしておくが、それでよいのかという気持ちが吹っ切れない。どう考えても、この句の季節は冬だからだ。それはともかく、激しい気合いのこもった句である。「訣(わか)れきて」が「別れきて」ではないところに注目しよう。「訣」は「永訣」などというときの「訣」だから、作者は誰かと決別してきたことがうかがえる。憤然として帰宅し、その興奮が醒めやらぬままに、囲炉裏か竃か火鉢あたりの「烈火」を「火箸」で挟んでいる。「火箸かな」の「かな」は、火箸をつかんで怒りにぶるぶると震えている作者の「手元」を想像させ、俳句ならではの表現と言えるだろう。真っ赤に熾った炭火は顔面を焼くほどに強烈だし、普段ならおっかなびっくり慎重に火箸で挟んで移し替えたりするわけだが、このときの作者はがっちりと正面から烈火に向き合っている。訣れの際の、それこそ烈火のごとき感情を引きずっているので、これぞ人の勢いというものなのだ。たぶんフィクションだとは思うけれど、激しい怒りのありようを描いて卓抜である。神生彩史はかつての新興俳句の旗手的存在であり、その新鮮な詠みぶりは同時代の多くの俳人に影響を与えた。もっと広い世界で評価されてよい「詩人」である。『深淵』(1952)所収。(清水哲男)


November 26112004

 世の中も淋しくなりぬ三の酉

                           正岡子規

日は「三の酉」。十一月酉の日の鷲神社の祭礼だ。東京台東区千束の鷲神社の市が有名だが、他の社寺でも境内に鷲神社を勧請し、この祭を行う所が多い。参道には、熊手や縁起物を売る店が立ちならぶ。三の酉のある年には火事が多いというが、十一月も終わりころになると寒さが募り、暖をとるための火を使うようになるので、火事に警戒せよという言い伝えだろう。実際、三の酉と聞くと、寒い日の思い出しかない。気象的にも寒いのだけれど、社会的にも寒々としてくる。商店街などでは年の暮れモードに入り、仕事も年末年始を見据えてあわただしさが増し、句のようになんとなく「淋しく」なってくる。「世の中」は、気象的な条件を含んだ人間社会と解すべきだろう。どうという句ではないようにも思えるが、三の酉のころの人々の心持ちがよく出ていると思う。二十代の終わりのころに入り浸っていた新宿の酒場「びきたん」は、花園神社に近かった。ママのしいちゃんは毎年熊手を買いに行くのだが、店を開けてから客が増えてくると、なかの何人かを誘い、あとの客に留守を頼んで出かけていた。そんなときに私は、誘われても行かずに、いつも留守番役を志願したものだ。寒風のなかなんぞに出かけたら、せっかくの酔いが醒めるからというのが理由だった。思えば、若いのに「淋しい」男だったな、私は。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


November 25112004

 掃除機の捌き見事や足袋の足

                           泉田秋硯

語は「足袋」で冬。まずは和服姿の女性像が浮かんでくる。いまどきの家庭では、和服姿で掃除をする女性はいないだろうから、自宅ではなく、どこか出先での光景だろう。催し物会場の後片付けだとか、和風旅館の掃除だとか……。見るともなく見ていると、実に彼女の手際が良い。掃除機を自在に扱っている。それを「足袋の足」、つまり彼女の足さばきに集約して詠んだところが面白い。俳句ならではの言い止め方である。畳箒で掃いていた時代には、かなり掃き方の巧拙の差は目立ったものだが、なるほど「掃除機」のさばき方にも巧拙はある。私が下手なので、とてもよくわかる。どうしても箒時代の「四角い部屋を丸く掃く」みたいになってしまう。べつに手を抜いているわけじゃないのに、なんだか自然にそうなってしまうのだ。逆に、上手い人は子供のころから上手い。箒や掃除機に限らず、そういう人はどんな道具を扱わせても上手いのだ。人馬一体ならぬ人具一体とでも言うべきか。持って生まれた才能がそうさせるのだとしか、思いようがない。私などが日常的に悲観するのは、たとえば駅の券売機にコインを投入するときも、たいてい隣りの人よりももたもたしてしまうようなことだ。あんなものの扱いにだって、ちゃんと巧拙はあるのである。やれやれ、である。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)




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