「冬立ちておく霜さむみ焚く芝のしばしばとはむ山陰の宿」(加藤千蔭)。明日は立冬。




2004年11月6日の句(前日までの二句を含む)

November 06112004

 無人駅牛乳瓶に草の花

                           本宮哲郎

語は「草の花」で秋。名も知れぬ野草の花々。ちなみに「木の花」と言えば、春季ということになっている。ローカル線沿線の無人駅。人気(ひとけ)もなくひっそりとしたホームの片隅に、でもあろうか。「草の花」を挿した「牛乳瓶」がぽつねんと立っている。誰が置いたのだろう。ほんの茶目っ気からだったのかもしれないが、こんな辺鄙な土地まで訪ねてきた旅行者の粋な心持ちが伝わってくる。牛乳瓶のあたりだけが、ぼおっと明るんでいるようだ。格別に新味はない句にも見えるけれど、この句自体が無人駅のように人(作者)の気配をどこか感じさせない詠みぶりがあって、そこに惹かれた。これまでに私がいちばん印象深かった無人駅は、昔の山口線の長門峡あたり(だったと思う)にあったそれで、この駅はほとんど農家の庭先にあるような感じだった。汽車の窓から見たかぎりでは、土を盛って作られたホームを降りていくと、鶏などが遊んでいる庭を通って、それから道路に出て行く順路に思われた。つまり、この家では自宅の庭先に汽車が停まるわけだ。汽車が発するであろう騒音などのことよりも、そちらのほうに気を奪われて、ただただ羨ましいなと思ったことだった。子供時代に夢中になった電車ごっこの魅力の源泉が、そのままの現実としてそこにあったからである。「俳句研究」(2004年11月号)所載。(清水哲男)


November 05112004

 霧の灯に所持せるものを食べをる人

                           中村草田男

語は「霧(きり)」で秋。昔は春の霞(かすみ)も霧と言ったそうだが、現在は秋のみ。霞に比べると、霧にはどこか冷たい印象がある。「霧の灯」とあるから、戸外の情景だ。街灯だろうか、霧にかすんだ灯の下で、何か食べている「人」がいる。夜間工事の人とも考えられるが、私には浮浪者のように写る。作句は昭和十九年、かつての大戦たけなわの頃だ。浮浪者といっても、だから空襲で焼けだされて帰る家を失った人なのかもしれない。食糧難時代だったので、そういう人は本当に大変だったろう。食べているのは、何だろうか。握り飯かパンか、それとも芋の類だろうか。などということは、作者の眼中にはない。何でもよいけれど、とにかく彼は大切に「所持せるもの」を肌寒い道ばたで食べているのであって、あたり気にせずのその一心不乱な様子が、すれ違ったときの印象として心に深く焼き付けられたのである。あの時代ほどに「人は食わなければ生きていけない」と、誰もが肝に銘じたことはなかっただろう。そんな頃だったから、食べ物に向かったときのおのれ自身もまた彼と同じようなものだと、作者はつくづく「人」というものの哀れに感じ入っているのだ。「霧の灯」にロマンチシズムのかけらもなかった時代が、この国の現実としてあったということを、掲句はかっちりと証言している。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)


November 04112004

 秋暑し五叉路を跨ぐ歩道橋

                           比田誠子

の上の秋は今週でお終い。七日は、はや「立冬」だ。しかし、動くと汗ばむような陽気の日がまだしばらくは断続的にあらわれる。「秋暑し」の掲句はドカンと「歩道橋」を据えてみせ、それも五叉路を跨いでいるのだから、想像するだに暑そうである。身体的にも暑そうだが、それ以上に神経的にこたえる。夏の暑さなら覚悟しているので身体的な反応ですむけれど、秋の暑さの中だとむしろ余計に神経に障るので、辛いものがある。したがって、「秋暑し」の感覚がよく生かされている作品だと思う。実際、五叉路くらいの分かれ道を跨ぐ歩道橋をわたるのは、厄介だ。東京の飯田橋駅前の歩道橋を思い出したが、あそこは五叉路だったか何叉路だったか、とにかくよく注意してわたらないと、とんでもない所に下りてしまう羽目になる。たまに出かけると、必ずといってよいほどに間違える。まったく神経によろしくない歩道橋だ。それに歩道橋は、車優先思想の先兵みたいなものだから、まったくもって人間に失礼な建造物なのである。日本で最初に歩道橋ができたのは、たしか大阪駅前だったと記憶する。その昔の新幹線のキャッチコピーに「ひかりは西へ」というのがあった。これに習って言えば「失礼は西から」だ。なんてことを言うと、大阪人に張り倒されるかしらん(笑)。俳誌「百鳥」(2004年11月号)所載。(清水哲男)




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