September 102004
月白をただぼんやりと家族かな
伊藤淳子
季語は「月白(つきしろ)」で秋。月の出に、空がほんのりと白く明るんでくること。「月」に分類。今宵も東の空が白みはじめて、そろそろ月の上ってくるころになった。でも、「家族」は「ただぼんやりと」しているだけだ。とくに風流心を起こすわけでもないし、第一「月白」の空に気づいているのかどうかすらもわからない。漫然と、いつもと変わらぬ家族の時間が流れているのみである。つまり、日常的にこういう「ぼんやりと」した時間を共有しているのが家族というものだ。作者は、そう言っているのだろう。家族間に大事でもない限り、家族として過ごす時間はさして意識されることがない。月の出程度の現象に、いちいち鋭敏に反応したりなどはしないのである。最も心安い間柄とは、最も鈍い感覚や感情に安んじることが許されるそれではないだろうか。私の高校時代に、田中絹代が唯一度監督した『月は上りぬ』という映画があった。奈良で暮らす老夫婦と娘二人の平凡な家族の物語だ。うろ覚えだが、たしかラストシーンは、老夫婦が縁側でしみじみと古都に上ってくる月を見上げる場面だったと思う。この場合に家族はぼんやりとしていないわけだが、それは姉娘の結婚話がやっとうまくいったという「大事」があったからである。何事も無ければ、この家族もまた句のように「ただぼんやりと」していただけだろう。そんなことを、ふっと思わされた。『夏白波』(2003)所収。(清水哲男)
September 092004
一足の石の高きに登りけり
高浜虚子
陰暦九月九日(今年の陽暦では10月22日にあたる)は、陽数の「九」が重なるので「重陽」「重九」と呼び、めでたい日とする。その行事の一つが「高きに登る(登高)」ことで、秋の季語。グミを詰めた袋を下げて高いところに登り、菊の酒を飲むと齢が延びるなどとされた。したがって、「菊の節供」「菊の日」とも。元来は中国の古俗であり、今ではすっかり廃れてしまったが、この言い伝えを知っていた人は登山とまではいかずとも、この日には意識してちょっとした丘などの高いところに登っていたようだ。一種のおまじないである。「行く道のままに高きに登りけり」(富安風生)。掲句はその無精版(笑)とでも言おうか。用もないのにわざわざどこかに登りに行くのはおっくうだし、さりとて「登高」の日と知りながら登らないのも気持ちがすっきりしない。だったら、とりあえず一足で登れるこの石にでも登っておこうか。どこにも登らないよりはマシなはずである。というわけで、茶目っ気たっぷり、空とぼけた句になった。ただ、古来の習俗が形骸化していく過程には必ずこうした段階もあるのであって、その意味では虚子ひとりの無精とは言えないかもしれない。それが証拠に、たとえば草間時彦に「砂利山を高きに登るこころかな」の一句もある。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
September 082004
台風直撃肺活八〇〇で怺えんとす
名取 等
今年の日本列島は、うんざりするほど台風に見舞われつづけている。直撃を受けた地方の人は「うんざり」どころではないのだが、あまり直撃されない東京などでも、通過中は大気全体が異常な湿り気を帯びていて、体調にも少しく影響してくる。ましてや作者のように「肺活(量)八〇〇」程度で、しかも「直撃」されたとあってはたまるまい。強風に抗してただ呼吸をするだけでも、大変な苦しさなのだ。しかし、仕事には出かけなければならず、激しい雨風のなかに「怺(こら)えんと」出てゆく決意の句だ。自然の猛威にさらされるのは、いわゆる健常者ばかりではない。作者のような人もいるし、他のハンデを背負った人もいる。ニュースで報道される被害者のなかには、そういう人たちも当然含まれているのだろうが、そうした個人的事実は伝えられない。受け取るほうも、つい「ワン・オブ・健常者」と思ってしまい、そこまでは考えが及ばないのである。作者の意図はともかく、掲句はそうしたことを私たちに認識させてくれるという意味でも、貴重な一句ではなかろうか。ちなみに、それこそ健常者(18歳以上の成人)の肺活量の推測正常値は次の通りだ。男性={27.63−(0.112×年齢)}×身長。女性={21.78−(0.101×年齢)}×身長。作者の「八〇〇」は、なんと小さく、か細い数字であることよ。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)
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