September 032004
よく晴れて秋刀魚喰ひたくなりにけり
和田耕三郎
秋刀魚の句というと、たいていはじゅうじゅう焼いている場面のものが多いなかで、こうした句は珍しい。ありそうで、無い。「よく晴れて」天高しの某日、体調もすこぶる良好。むらむらっと秋刀魚が「喰ひたく」なったと言うのである。この句を読んだ途端に、私もむらむらっと来た。句に添えて、作者は「晴れた日は焼いた秋刀魚を、雨の日は煮たものが食べたい」と書いているが、その通りだ。料理にも威勢があって、とくに威勢のよい焼き秋刀魚などは、威勢良く晴れた日に食べるのがいちばん似合う。秋刀魚は昔ながらの七輪で焼くのがベストだけれど、我が家には無いので、仕方なく煙の漏れない魚焼き器で焼いている。これはすこぶる威勢に欠けるから、そう言っては何だけど、どうも今ひとつ美味くないような気がする。食べ物に、気分の問題は大きいのだ。秋刀魚で思い出したが、学生時代の京都にその名も「さんま食堂」という定食屋があった。メニューは、ドンブリ飯に焼いた秋刀魚と味噌汁と漬け物の一種類のみ。一年中、いつ行ってもこれ一つきりで、毎日ではさすがに飽きるが、よく出かけたものだ。旬のこの季節になると、やはり相当待たされるくらいに繁盛していたけれど、あの店はどうなったかしらん。むろん、厨房にはいつも威勢良く煙が上がっていた。「俳句」(2004年9月号)所載。(清水哲男)
September 022004
鬼やんまとんぼ返りをして去りぬ
田代青山
季語は「やんま」で秋。「蜻蛉(とんぼ)」に分類。蜻蛉のなかでも、近年とくに見かけなくなったのが「(鬼)やんま」だ。全国的な都市化、環境破壊のせいである。たまに見かけると、「おっ」ではなく「おおっ」と思う。掲句にはまた別の意味で「おおっ」と思った。「とんぼ返り」といえば歌舞伎でのそれを指したり、「♪とんぼ返りで今年も暮れた」などと用いる。むろん誰もがこの言葉が蜻蛉の生態から来ていることは知っていようが、普通にはこれら比喩的な表現のほうが主となっていて、もはや本家のほうは忘れられているに等しい。「とんぼ返り」と聞いて、蜻蛉の姿を思い浮かべることはないのである。ところが作者はこれを逆手に取って、蜻蛉(鬼やんま)そのものにとんぼ返りをさせている。つまり、言葉の本義をそっくり元通りに再現してみせたわけだ。当たり前じゃないか、などと鼻白むなかれ。当たり前は当たり前だとしても、実際にこうして本物のとんぼ返りを確認したときに、ふっと湧いてくる新鮮な心持ちのほうに入り込んで読むべきだろう。そしてまた、当たり前が見事に当たり前であるときに感じる可笑しさのほうにも……。あっけらかんとした詠みぶりも良い。鬼やんまの生態に、ぴしゃりと適っている。『人魚』(1998)所収。(清水哲男)
September 012004
二通目の手紙大切いわし雲
ふけとしこ
季語は「いわし雲(鰯雲)」で秋。「鱗(うろこ)雲」、「鯖(さば)雲」とも。「秋天、鰯先よらんとする時、一片の白雲あり、その雲、段々として、波のごとし、是を鰯雲と云」(曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』)。秋を代表する美しい雲だ。掲句の「二通目の手紙」には、ちょっと迷った。最初は同一人から連続して配達されてきた二通目だろうかとも考えたが、いわし雲との取り合わせがいまひとつ不明確。抽象的なレベルでの相関関係も探ってみたけれど、探るうちに、素直に戸外での情景と読むほうが面白いと思えてきた。良く晴れた秋空の下、作者は手紙を投函しに行く途中である。何通かの手紙を手にしていて、そのうちの「二通目」が大事なのである。言われてみれば、私なども大事な手紙は数通の間に挟んで出しに行く。直接、表にはさらさない。宛名書きを汚してはいけないとか、何かに引っかけて破いてはいけないとか、そうした配慮が自然に働くからだ。そして、手紙を書くとは何事かの決着をつけるためであり、それを投函することで書いた側の一応の決着が着くことになる。深刻な内容のものならばなおさらではあるが、軽い挨拶程度の手紙でも、決着という意味では同じことだろう。句の「いわし雲」はもとより実景だが、心理的には決着をつける心地よさが反映されていると読んだ。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)
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