March 102004
春闘妥結トランペットに吹き込む息
中島斌雄
季語は「春闘」。たしかに、こんな時代があった。もはや、懐しい情景になってしまった。何日間も本来の仕事の他に、根をつめた労使交渉をつづけたあげくの「妥結」である。たとえ満足のゆく結果が出なかったとしても、ともかく終わったのだ。その安堵感の中で、久しぶりの休日に、趣味のトランペットを吹く時間と心の余裕ができた。楽器の感触を確かめながら、おもむろに息を吹き込む男の様子に、読者もほっとさせられる句である。とはいえ、現在の仕事の現場にいる人たちのほとんどには、もう掲句の味をよく解することはできないだろう。いまや春闘は一部大手企業の中でかろうじて命脈を保っているだけであり、他の人々には実質的にも実態的にも無縁と化してしまっているからだ。春闘がはじまったのは1955年(昭和30年)であり、季語にまでなって誰にも無関係ではない闘争であったものが、わずか半世紀の間にかくも無惨に形骸化するとは、誰が予測しえたであろうか。春闘をめぐっては数々の議論があって、とても紹介しきれないけれど、いずれにしても労使双方があまりにも経済一辺倒の価値観を持ちすぎたがために崩壊したと、私には写っている。「カネ」にこだわるあまりに、労働現場の改善はなおざりにされ、いまだにサービス残業や単身赴任などという異常な事態が、誰も不思議に思わないほどまでに定着しているのも、春闘の中身が何であったかを物語っている。このところの経団連は「不況と失業の時代なのだから、賃上げどころではない」と言いつづけているが、これは要するに旧態依然として「カネ」にこだわっている態度にすぎない。不況と失業の時代だからこそ、労働者を守り育てていかねばならぬ雇用者の責務を自覚していないのだ。話にならん。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
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