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2004年句(前日までの二句を含む)

March 0132004

 三月の声のかかりし明るさよ

                           富安風生

あ「三月」だ。そんな「声のかか」っただけで、昨日とさして変わらぬ今日ではあるが、なんとなく四囲が明るんだように見えてくる。こういう気分は、確かにある。天気予報によれば、東京あたりの今日から三日間ほどは冬に逆戻りしたような寒さがつづくという。それでも、三月は三月だ。そう思うと、寒さもそんなには苦にならない。もうすぐ暖かくなって、月末ころには桜も咲くのである。むろん北国の春はまだまだ遠いけれど、三月の声を聞けば、やはり気持ちは明るいほうへと動いていくだろう。このあたりの人間の心理の綾を、大づかみにして巧みに捉えた句である。読んだだけで、自然に微笑が浮かんでくる読者も多いことだろう。これぞ、俳句なのだ。ただ近年では花粉症が猛威を振るいはじめる月でもあって、症状の出る人たちにとっての「三月の声」は、聞くだに不快かもしれない。まことにお気の毒だ。ご同情申し上げます。そうした自然界を離れて人事的に「三月」を見ると、年度末ということがあり、働く人たちにとっては苦労の多い月でもあって、花粉症とはまた別の意味で嘆息を漏らす人もいるだろう。現実は厳しいと、自然がどんどん明るくなっていくだけに、余計に骨身に沁みてくるのだ。それも、よくわかるつもりです。だんだん話が暗くなりそうなので、このへんで止めておきますが、ともあれ「三月」。自然的にも社会的人事的にも一年のうちで最も変化に富んでいるこの月を、私は生まれてはじめて意識的にどん欲にしゃぶりつくしてやろうかと思っています。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


February 2922004

 うぐひすや家内揃うて飯時分

                           与謝蕪村

食時だろう。家族がみんな揃った食事時に「うぐひす(鶯)」が鳴いた。と、ただそれだけの句であるが、現代人の感覚で捉えると趣を読み間違えてしまう。「家内揃うて」は、現代の日曜日などのように、一週間ぶりくらいにみんなが顔を合わせているということではないからだ。昔は家族「揃うて」食事をするほうが、むしろ当たり前だった。だから、句の情景には現代的な家族団欒などという意味合いはない。一年中春夏秋冬、いつだって家族は揃って食事をとるのが普通だったのだ。では蕪村は、何故わざわざ「家内揃うて」などと、ことさらに当たり前のことを強調したのだろうか。それは「うぐひす」が鳴いたからである。何の変哲もないいつもの「飯時分(めしじぶん)」に、春を告げる鳥の声が聞こえてきた。途端に、作者の心は待ちかねていた春の到来を想って、ぽっと明るくなった。気持ちが明るくなると、日頃何とも思っていない状態にも心が動いたりする。そこで、あらためて家族がみな揃ってつつがなく、今年も春を迎えられたことのありがたさを噛みしめたというわけだ。蕪村の心の内をこう単純化してしまうとミもフタもないし、句の味わいも薄れるけれど、大筋としてはそういうことだと考える。現代詩人である吉野弘に、虹の中にいる人には虹は見えないといった詩があるが、掲句では虹の中の人が虹を見ていると言えるのではあるまいか。今日で二月もおしまいだ。現代の読者諸兄姉は、どんな春を迎えようとしているのだろうか。掲句のようにゆったりと、それぞれの虹を見つめられますように。(清水哲男)


February 2822004

 古代の夢脈打たせつゝ蛇覚めぬ

                           下重暁子

の季語に「蛇穴を出づ」がある。冬眠していた蛇が、暖かくなって穴から這い出してくることを指す。揚句には「蛇覚めぬ」とあるから、這い出す前の目覚めの状態を言っているわけで、まずはここが面白いと感じた。そうなのだ、行動の前には目覚めがなくてはいけない。目覚めた蛇がすぐに出てくるのかどうかは知らないけれど、蛇にだって寝起きの悪いのもいるだろう。そんな奴はなかなか出てこなかったりして、などと空想に遊んでみるのも楽しい。それはともかく、この蛇が見ていた夢は、古代の夢だ。すなわち、洋の東西を問わず、正邪いずれの意味にせよ、蛇が大いに珍重されていた時代の夢を見ていた。日本でも古代から、山の神、水の神、雷神としての蛇の信仰が伝えられており、記紀には八岐大蛇についての物語や、大和の御諸山の祭神・大物主命が蛇体であったことが記されている。そんな時代の夢を見たものだから、この蛇は興奮して身体を「脈打たせつゝ」目覚めたのだった。天下を取ったような気分だったろう。地上に出ても、そこには何も怖いものはない、なんだって可能なんだという思い……。が、掲句の味わいはここから先にあるのであって、徐々に覚醒の進んできた蛇が、やがて「なんだ、夢だったのか」と失意に落ちる刻がやってくるのだ。これから、古代とは大違いの忌み嫌われる世界へと、出ていかなければならない。その哀れを言わずに、一歩手前で止めたところに妙手を感じる。作者は、知る人ぞ知るNHK元アナウンサー。うまいもんですね。なお、掲句を当歳時記では、便宜上「蛇穴を出づ」に分類しておきます。金子兜太編『各界俳人三百句』(1989)所載。(清水哲男)




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