目の調子が良いので本が読める。宇佐美斉『作家の恋文』(筑摩書房)の冷静な楽しさ。




20句(前日までの二句を含む)

January 1412004

 明け方の夢でもの食う寒さかな

                           辻貨物船

物船(詩人・辻征夫)にしては俳句になりすぎているような句だが、この味は捨てがたい。寒い日の明け方、意識は少し覚醒しかけていて、もう起きなければと思いつつ、しかしまだ蒲団をかぶっていたい。そのうちにまた少しトロトロと眠りに引き込まれ、空腹を覚えてきたのか、夢の中で何かを食べているというのである。誰もが思い当たる冬の朝まだきの一齣(ひとこま)だ。まことに極楽、しかしこの極楽状態は長くはつづかない。ほんの束の間だからこそ、句に哀れが滲む。いとおしいような人間存在が、理屈抜きに匂ってくる。物を食べる夢といえば、子供のころには日常的な飢えもあって、かなりよく見た。でも、せっかくのご馳走を前にして、やれ嬉しやと食べようとしたところで、必ず目が覚めた。なんだ夢かと、いつも落胆した。だから大人になっても夢では食べられないと思っていたのだが、あれは何歳くらいのときだったろうか。なんと、夢で何かがちゃんと食べられたのだった。何を食べたのかは起きてすぐに忘れたけれど、そのもの本来の味もきちんとあった。それもいまは夢の中だという自覚があって、しかも食べられたのである。感動したというよりも、びっくりしてしまった。これはおそらく、もはやガツガツとしなくなった年齢的身体的な余裕が、かえって幸いしたのだろうと思ったことだが、どうなんだかよくはわからない。その後も、二三度そういうことが起きた。ところで、今日一月十四日は作者・辻征夫の命日だ。彼が逝って、もう四年にもなるのだ。辻よ、そっちも寒いか。『貨物船句集』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


January 1312004

 ピッチャーは冬田の狼 息白し

                           天沢退二郎

作「カムフラージュ」九句のうち。季語が二つ出てくるので、当歳時記ではまとめて「冬」に分類しておく。前書に「以下の九名(ナイン)、野球チームとは世を忍ぶ仮の姿也」とあるから、男の性格や気質、ありようなどを野球のポジションになぞらえて詠んだものだろう。餌を求めて里に下りてきた孤狼一匹、吐く息はあくまでも白く、眼光炯々として獲物を求めている図である。かつての田んぼ野球派としては、投手の気概をさもありなんと感じて、懐しくも力の入る句だ。田んぼ野球からプロ野球まで、投手の性格はこうでなければ勤まらない。「お先にどうぞ」などという優しい性格は、マウンドには不向きである。本当は心優しくても、マウンド上では必死の狼になる必要がある。まだ現役のときの江夏豊に聞いた話だが、彼の肩をいからせてのっしのっしと歩く姿までが、ほとんど演出だった。「そうでもしないと、なめられてしまう」。草野球でも同じである。野球に限らず、そんな演出が必要なポジションは、世の中にいろいろとありそうだ。だから「カムフラージュ」というわけか。作者は知る人ぞ知る野球狂で、とくに少年期に親しんだ職業野球や六大学、都市対抗の選手たちの話を聞いていると、その博覧強記たるや尋常ではない。このごろでは、床についてからふと往時のある球団のセンターのことを思い出し、次に「ではライトには誰がいたか」と思い出そうとして思い出せず、それが原因で寝られなくなるというのだから、これまた尋常じゃない。そんな詩人の詠んだ句である。もう一句。「辛酸を嘗め過ぎ捕手の下痢やまず」。ははは。なにせ相棒は狼なので、気苦労が多いからね。と笑っては、全国の捕手諸君に失礼か。俳誌「蜻蛉句帳」(21号・2003年12月)所載。(清水哲男)


January 1212004

 隠し持つ狂気三分や霜の朝

                           西尾憲司

とえば雪が人の心を包み込み埋め込むのだとすれば、「霜」は逆だろう。神経を逆撫でするするようなところがあり、人を身構えさせる。作者が「狂気三分」を覚えたのも、心でキッと身構えたからにちがいない。出勤の朝だろうか。いや休日であろうとも、おのれの狂気を「隠し持つ」一日がまたはじまったわけである。このときに「狂気」とは、世の中の仕組みとはとうてい折り合わないけれど、しかし自分にとってはしごく自然な心のありようのことだろう。人はひとりでは生きられないから、誰もが折り合いをつけるために、折り合いのつかない部分を抑えながら生きていく。ワッと叫びたいけど、叫べない。いっそ一思いに叫んだら、どうなるのか。その答えを知っている心がなお自分を押さえつけ、その自己抑圧はおそらく生涯つづいてゆくような気がする。昨日から、谷崎潤一郎が七十七歳のときに書いた『瘋癲老人日記』を読みはじめた。日記という形式だから、ことさらに狂気を隠す必要はないわけで、そこが面白い。テーマを単純化してしまうと、かつての名作『春琴抄』の佐助の狂気を、現実の老人の日常に置き換える試みのようだ。主人公は老人という弱者の立場を逆に利用して、ずる賢くも狂気の現実化を少しずつ計ろうとするのだが、たとえ家族同士の狭いつきあいでも、やはり世の中であることには変わりない。簡単には、事は進まない。掲句の作者の心情は多くに共通するそれだろうから、そんな読者像を熟知していた老いたる谷崎は、ついに人の心は解放されっこないぜと、この世の中に捨て台詞を残したかったかのようである。『磊々』(2002)所収。(清水哲男)




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