銀座に開店したアップル・ストア。店員が元気よく「今日は」はいいけど、やり過ぎだ。




2003年12結蛛i前日までの二句を含む)

December 11122003

 純白のマスクを楯として会へり

                           野見山ひふみ

語は「マスク」で冬。ぼつぼつ、マスクをしている人の姿が増えてきた。冬ですね。といっても、最近では花粉症の季節にもマスク姿をよく見かけるようになったから、この季語、将来はどうなるのかしらん。さて、作者は身構えて物を言わざるを得ない人に会いに行った。実際に風邪をひいていたのかどうかはわからないが、とにかくマスクを「楯(たて)」のようにして話したというのである。「純白の」に、相手に対する挑戦的な姿勢が強調されている。マスク一つで、心強くなれる人間心理は面白い。マスクに似た効果があるのはサングラスで、あれもかけ慣れると、なかなか外せなくなる。私は若い頃にいっとき、夜でもかけていた。礼儀上外したときなど、別に身構える相手ではないのに、なんだか自分が頼りなく思えて困ったものだった。古風な小説や映画に出てくる怪盗などがしばしばアイ・マスクをして登場するのは、一つには顔を見られたらいけないこともあるが、そのこと以上に、あれはまず自分自身を鼓舞するための道具なのではなかろうか。風邪のマスクに話を戻せば、SARS騒ぎの中国の街で、ほとんどの人たちがマスクをしている映像は記憶に新しい。あの場合はむろん自己鼓舞とは無関係だけれど、あれだけの人々がマスクをしていたら、それまでの人間関係が微妙に変化する部分もあったのではないかと思う。句が言うように、たかがマスクとあなどれないのである。『俳句歳時記・冬』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


December 10122003

 襤褸着て奉公梟に親のゐて

                           ふけとしこ

語は「梟(ふくろう)」。留鳥だから四季を問わないが、冬の夜に聞く鳴き声は侘しくもあり凄みもあるので、冬の季語として定まったらしい。絵や写真で見る梟はどことなく愛嬌のある感じだが、実際は肉食する猛禽だ。鼠なども食べてしまうという。句はそんな生態をとらえたものではなく、あくまでも遠くから聞こえてくる独特な鳴き声に取材している。「襤褸(ぼろ)着て奉公」とは、いわゆる聞きなしだ。昔から人間は、動物の声を地域や聞く立場の差異によって、いろんなふうに聞きなしてきた。梟の声も単にホーホーホホッホホーホーと聞くのではなく、句のように聞いたり、あるいは「五郎助ホーホー」「糊つけて干せ」、なかには「フルツク亡魂」なんて怖いのもある。それでなくとも寂しい冬の夜に、こいつらの声はなお寂しさを募らせる。作者はそれを「襤褸着て奉公」と聞き、ああやって鳴いている梟にも親がいて、お互いに離れ離れの身を案じているのだと哀れを誘われている。スズメやカラスなど日頃よく見かける鳥に親子の情愛を思うのは普通だけれど、夜行性の不気味な梟にそれを感じたのは、やはり寒い季節に独特のセンチメントが働いたからなのだろう。その働きを見逃さず書き留めたセンスや、よし。他の季節であれば、同じように聞こえても、親子の情までにはなかなか思いがいたらない。奉公という雇用形態が実体を失って久しいが、戦後の集団就職は奉公につながる最後のそれだったと思う。中学を卒業してすぐに親元を離れ、町工場などに住み込みで働いた。子供はもちろん送り出した親も、どんなに寂しく心細かったことだろうか。そんな苦労人たちもみな、いまや高齢者の域に入った。そうした人々が読んだとしたら、掲句はとりわけて身に沁み入ることだろう。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


December 09122003

 遠ざかる人と思ひつ賀状書く

                           八牧美喜子

度も書いているように、作句の要諦は読者に「なるほどね」と思い当たらせることだ。季語は、言ってみれば思い当たらせるための最も有効な補助線である。たとえば「雪」と書けば「冬ですよ」と季節を限定できることから、それだけ「なるほどね」と中身にうなずいてもらえる必要条件が整うわけだ。この条件を逆用して、あっと驚かせるドンデンガエシ句を作る場合もあるけれど、驚かすための布石としてはやはり当たり前の補助線を当たり前に引いているにすぎない。掲句はとても素直な補助線が引いてあるので、わからない人はいないだろう。なるほど、こういうことってあるよなあ。と、納得できる。ところが句を「暑中見舞書く」としたら、どうだろうか。大半の人は、共感しかねるに違いない。賀状だからこそ、納得がいくのだ。そして掲句には、その先もある。中身は一見平凡に写るが、読者を簡単に納得させたその先に、実は一つの疑問を提示していると読むべきだろう。すなわち、年賀状って、いったい何なのかという疑問だ。儀礼だとか虚礼だとかとは別な問題として、出す側をかくのごとくに拘束する力の不思議さ。「遠ざかる人」と思うなら、書かなければよいというわけにもいかない心理が、年賀状に限って働くのは何故なのだろうか。鋭く疑問を呈しているのではないけれど、読者が本当に思い当たっているのは、こうしたことが自分にも起きるという事実そのことではなくて、毎年のように自問しているこのような漠然たる疑問そのものであるはずだ。おそらくは出す相手の側も、作者と同じ心理を働かせながら、結局は書いている。そう思うと、なんだか滑稽でもあり、しかし笑い捨てることもできない変な気持ちにさせられた。2004年版『俳句年鑑』(角川書店)所載。(清水哲男)




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