October 122003
をりとりてはらりとおもきすすきかな
飯田蛇笏
季語は「すすき(芒・薄)」で秋。秋の七草の一つ。さて、今日は三連休の中日ですね。お勤めの方々には、三日間の中でもいちばんリラックスした気分で過ごせる日ではないかと思います。やっぱり日頃の土日二連休とは違って、いつもと同じ日曜日の感じではありませんよね。なんてったって、明日も「また」休めるのですから。非常に得をしたようなご気分の方が多いでしょう。そこで、ひとつどうでしょうか。近所の河原にでも出かけてみて、すすきを手折るなどして句のような風流を味わってみては……。でも、てな誘いにうかうかと乗せられて、すすきを手折ろうなんてことはしないほうが良いですよ。あの茎はとても強くてしぶといですから、普通の人には手折るなんて上品な行為では、まず「をりと」るのは無理でしょう。力任せに左右に何度もねじって、引き千切るくらいの野蛮さが必要です。学生時代にはじめて掲句に出会ったとき、私は蛇笏を人並外れた怪力の持ち主かと思いましたね。どう考えても、この句は丈の高い丈夫なすすきを「をりとりて」いるとしか読めません。なにしろ、手にして「はらりとおもき」なのですからね。そんなすすきを、句はたやすく手折ったように印象づけていますが、またそれでなくては句の美しさが失われてしまいますが、本当にさらりと「をりと」ったのだとすれば凄いことです。私だったら、「ねじきって」とか「ねじおって」、あるいは刃物で「きりとって」とでもやるところでしょうか。しかし、これでは「はらりとおもき」とはいきませんから駄目でしょう。名句の誉れ高いこの句は、ま、あらまほしき世界を描いたフィクションとしての名作なんでしょうね。世の中には「はらりとおもき」に目を奪われた解釈が圧倒的ですが、「をりとりて」にもう少し注目する必要があろうかと思います。むろん、私は俳句のフィクションを否定しません。否定しませんが、これはいささかやり過ぎじゃないのかと。いかにも実際めかした衣裳が、どうにもいただけませんので。(清水哲男)
October 112003
末枯れや目上と云うも姉ひとり
市川静江
季語は「末枯れ(うらがれ)・末枯」で秋。晩秋に、草や木の葉が先の方から枯れてくることを言う。「末(うら・うれ)」は、物の根元に対して先端のこと。木の先端を指す「梢」も、本意としては「木末」から来ている。作者はこの季語を、人間もまた草木と同様に末枯れてゆく宿命だと詠んでいて印象深い。ふと気がついてみたら、周辺に「目上(めうえ)」と呼べる人は姉ひとりしかいなくなってしまっていた。年齢を重ねてくるとは、こういうことなのかという感慨。この感慨が実景の末枯れとが見事に照応しあっていて、心に沁みる。作者のことは何も知らないけれど、寂しい取り残されたような気持ちはよく伝わってくる。このときに、末枯れている草木には晩秋の弱々しい日が射している。そんな季節が、今年も間もなく訪れようとしている……。ところで、この「目上」という言葉だが、単に実際的に年齢が上だとか地位が上だということだけではなくて、この表現には相手に対する尊敬や敬愛の念が含まれていると読みたい。近来とみに失われてきたのは、その意味での目上意識ではあるまいか。べつに昔の修身を押しつけるつもりはないが、最近の若者を見ているとそんな気がしてならないのだ。小さいころから両親や教師を友だちみたいにして育ってきているので、無理もないのかもしれない。したがって、彼らの敬語の乱れなどがよく問題になるけれど、目上意識のない者にいくら教えこもうとしたって、そもそも敬語を話す心的根拠がないのだから、無理な相談というものなのである。「現代俳句年鑑」(2002)所載。(清水哲男)
October 102003
木守柿妻の名二人ある系図
秦 夕美
季語は「木守柿(きもりがき)」で秋。代々長くつづいている家だと、寺に行けば過去帳(鬼籍)なるものがある。寺で、檀徒の死者の戒名(法名)、実名、死亡した年月日などを記入しておく帳簿だ。我が家では父が分家初代なので存在しないが、義父が亡くなったときに見たことがある。三百年ほど前からの記録だったと記憶しているが、眺めていると、他人の家のことでもじわりと感慨が湧いてくる。はるか昔から生き代わり死に代わりして、現在まで血がつづいてきたのか。会ったこともないご先祖様のあれこれも想像されて、そこには単なる記録を越えた何かがあった。作者の家には仏壇の抽き出しに、同様の書類が残されてきたという。なかに、後妻○○と記された何人かの女性名がある。むろん最初の妻との死別による再婚もありうるが、なかには「家風に合わぬ」「子なきは去れ」と追い出された先妻のあとの座にすわった女性もいるかもしれない。いずれにしても、家中心の社会、男中心の社会のなかで、犠牲になる女性は多かった。「妻の名二人」のどちらかは、そのような犠牲者だったことはあり得るわけだ。そこには、どんなドラマがあったのだろうか。作者はそんな女たちの怨念を思いながら、次のように書く。「高い梢には夕日のしずくのような赤い実が残されていた。その『木守柿』が私には未練を残しつつ去った女たちの魂のように思えてならなかった」。『秦夕美・自解150句選』(2002)所収。(清水哲男)
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