季語が秋めくの句

August 2382003

 秋めくや一つ出てゐる貸ボート

                           高橋悦男

語は「秋めく」。このところの東京は残暑がぶりかえしてきて蒸し暑いが、日の光りはさすがにもう秋である。八月も終わりのころの、そんな日の暑い昼下りの情景だろう。夏の盛りには家族連れなどで大いににぎわった貸ボート場も、いまは閑散として、ただ一艘が出ているだけだ。この句が上手いなと思うのは、主観性の強い「秋めく」という表現に、眼前の一情景をそのまま写生することによって明晰な客観性を与えているところだ。間もなく秋の観光シーズンになれば、またこのボート場にも活気が戻ってくるのである。すなわち、夏の盛りと秋のそれとの中間の、それもほんの短い間の季節感をさらりと一筆書きに仕留めたような巧みさ。だから作者は、この情景が淋しいとか心に沁みるとかと言っているのではない。あえて言うならば、情景の客観写生が「秋めく」という主観的な言葉を引き出してくれたことで、作者は句になったと納得している。実作者の人ならば、このあたりの気持ちの良さは理解できるだろう。これまでに「秋めく」の句はたくさん作られてきたが、主観性のかちすぎた句が多い。といって、私には主観性を否定する気など毛頭ないのだけれど、しかし、このように客観が主観を引っ張り出す俳句の様式には、舌を巻かざるを得ないのである。地味な句ではある。が、俳句の様式に関心のある人には見過ごせない句だと思った。もう少し考えてみたい。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


August 0882004

 大阪に曵き来し影も秋めきぬ

                           加藤楸邨

だ残暑のきびしい折りだが、四辺がどことなく秋らしくなってきた感じを「秋めく」と言う。気詰まりな用事のために出かけてきたのか、それとも体調がすぐれないのだろうか。「曵き来し影」の措辞には、作者があまり元気ではないことが暗示されている。みずからを励ますようにして、やっと「大阪」までやってきたのだ。暑さも暑し。大阪はごちゃごちゃしていて活気のある街だから、余計に暑さが身に沁みたのだろう。が、流れる汗を拭いつつ歩くうちに、ふと目に入った路上の自分の影には、かすかに秋色が滲んでいるように見えたと言うのである。真夏の黒い影とは違って、ほんの少し淡く金色の兆したような色の影がそこにあった。ほとんど一瞬のうちに身の内を走り抜けた感覚を詠んだ句だが、こうして書き留められてみると、このときの作者の疲れたような姿が浮かんでくるし、大阪の街のたたずまいまでもが彷彿としてくるところが見事だ。多少は大阪を知る者として、私には句の抒情性が的確であることがよくわかる。同じ関西でも、京都でもなければ神戸やその他の都市でもない。大阪には大阪に特有な街の表情があり、不意にこのような感傷を呼び起こすところがある。猥雑とも言えるエネルギーに満ちた大阪のような街は、またセンチメンタリズムの宝庫でもあるのだと、いつも思ってきた。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 1982009

 古書店の影さまざまに秋めきぬ

                           佐藤和歌子

の上ではもう秋だとは言え、まだまだ残暑は厳しい。しかし、何かの拍子にひょっとして、それとなく秋の気配がしっかり感じられることがある。「春めく」にしても「秋めく」にしても、じつに曖昧で主観的な感性が日本独特の季節感を表現し、古典詩歌を繊細に豊かにしてきたと言える。掲出句が出された句会では「古書店の影って曖昧ですよ」という声もあがったようだが、私に言わせれば、「古書店」だからこそ「影さまざま」が生きていると思われる。古書店というものには、それぞれの店構えもさることながら、古書店内独特の匂いやさまざまな書物の気配などがあって、みな個性をにじませている。いや、独自性を毅然と誇示しているようにさえ感じられる。神保町の古書店街あたりだろうか。秋の弱い日差しや秋風を受けはじめた店がもつ影にも、それぞれ別々のニュアンスが感じられるのも秋なればこそ。「影」こそがこの句のポイントである。直接的には建物としての店の影であろうが、形而上的な意味合いも十分に含まれていると読みたい。作者は同じ兼題で「秋めくや母はルージュを濃くしたり」という、女性らしいモチベーションをもった句も同時に作っている。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)


August 0482010

 秋めくや貝ばかりなる土産店

                           久米正雄

れほど賑わっていた海浜も、秋に入って波は高くなり、客も減ってくる。砂浜を初秋の風が徐々に走り出す。土産店もすっかり客足が途絶えてしまった。どこでも売っているような、子ども相手のありふれた貝細工くらいしか今は残っていない。この土産店は海水浴客相手の、夏場だけの店なのかもしれない。店内は砂埃だけが目立って、もはやあまり商売にならない時季になってしまった。海浜の店で売っているから、貝のおみやげはすぐそこの海で採れた貝であるという、整合性があるように感じられても、たいていはその海であがった貝ではない。各地から集められた貝が画一的に加工され、それを店が仕入れてならべているのだ。だから、自分が遊んで過ごした浜で拾った何気ない貝こそが、記念のおみやげになるわけである。売れ残って店にならぶ貝殻が、いかにももの淋しい秋を呼んでいるような気配。何年か前、秋めいた時季に九十九里浜へ出かけたことがあった。すでに海水浴客はほとんどいなくて、浜茶屋もたたみはじめていた。辛うじてまだ営業している浜茶屋に寄ると、何のことはない、従業員たち数人が暇をもてあまし、商売そっちのけで花札に興じていた。真っ黒い青年が「今度の日曜日あたりにはたたむだよ」と言っていた。「秋めくや売り急ぐものを並べけり」(神谷節子)。掲句の店では、もう「売り急ぐもの」などない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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