July 082003
レンジにてチンして殺そか薔薇の花
宮嵜 亀
季語は「薔薇(ばら)」で夏。句集に寄せた一文で、坪内稔典が書いている。「レンジでチンする、というはやりの言葉(俗語)を取り込み、『殺そか』の後に何が来るのか、オカンかトカゲか、あるいはアブラムシか、と予想していたら、なんと『薔薇の花』が来た意外さ ! もちろん、この意外さによって俳句(詩)が成り立ったのである。ともあれ、レンジでこともあろうに薔薇をチンするという意外さは、同時に少しきざっぽくもある。あるいは少年めいていると言ったらいいか」。そのとおりで、俳句になったのは確かに意外さの効果である。でも、こうした句の場合、何でもかでも意外なものを持ってくれば即俳句になるのかと言えば、そうはいかないところが厄介だ。当て推量だけれど、作者当人は案外意外とは思っていないのだと思う。何か豪奢で美々しいものに対しての故無き殺意。これは、誰の心にも微量にもせよ潜在しているのではあるまいか。それが作者にとってはたまたま「薔薇の花」だったのであり、掲句に共鳴した読者は「薔薇の花」には何とも思わなくても、瞬間的に自己に固有の殺意の対象にずらして読むということをしたのではないか。その対象は、むろん他人にとっては意外なものだ。だが、当人にとってはそれほど意外さのないものである。そうした咄嗟の読み替えを、読者にうながすことができるかどうか。できれば俳句になるのであり、できなければ駄句以下となってしまう。作者に贔屓して言っておくならば、「少しきざっぽく、少年めいて」映る発想だからこそ、逆に読者のなかで眠っている故無き殺意に思い当たらせる力が出たのである。『未来書房』(2003)所収。(清水哲男)
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