October 132002
悪友が母となりたる秋真昼
土肥あき子
いい言葉だな、「悪友」とは。御承知のように、親しい友人や遊び仲間を親しみを込めて反語的に呼ぶ。英語の「bad friend」ともニュアンス的に重なるところはあるものの、日本語では英語のようにストレートな「悪い仲間」の意味は希薄である。その悪友が無事に出産したことを、作者は「秋真昼」に知る。爽やかな秋晴れのなか、電話で知らされたのであろう作者の胸のうちには、おそらく咄嗟には何の感慨も浮かばなかったと思いたい。この種の出来事の感慨には、時間がかかるものなのだ。感じたとすれば、親しかった友だちが、急にすうっと別の世界に行ってしまったという一種の疎外感ではあるまいか。何をするにも気持ちが合い、何につけても趣味が合い、一心同体は大袈裟にしても、とにかく打てば響くの間柄であるがゆえの疎外感……。むろん前もって出産予定日などはよく承知していたはずだけれど、事がいざ現実となって訪れてみれば、ただただ無感動にぽかんとしてしまったのだ。だいぶ以前に、どこかの雑誌で誰かが掲句を評する際に、なぜ「秋真昼」なのかと必然性に疑問を呈していたのを覚えている。ったく、センスがないねえ。ならば、たとえば「秋の朝」とか「秋の夜」とかに読み替えてごらんなさい。句に滲む微妙な疎外感が、たちまちにして乾きを失いリアリティを失い色褪せてしまうのは明白でしょうが。この句は、絶対に「秋真昼」でなければ成立しません。『鯨が海を選んだ日』(2002)所収。(清水哲男)
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