April 242002
総金歯の美少女のごとき春夕焼高山れおな季語は「春夕焼」。単に夕焼といえば、盛んに見られる夏の季語だ。夕焼は四季を問わずに出現するが、春の夕焼は柔らかな感じがするので、他の季節のそれとは区別してきた。で、この一般的なイメージに逆らっているのが、掲句。「よく見てご覧。そんなにうっとりと見つめられるような現象でもないよ」と、言っている。例えれば色白の「美少女」の柔らかい頬が少しゆるんで、にいっと「総金歯」が剥き出しになっているようじゃないか。そんな不気味なまがまがしさを含んだものとして、作者には見えている。なんともおっかない感受性だが、この句を知ってしまった以上、次に春夕焼を見るときにはどうしても総金歯にとらわれることになる。どのあたりが金歯なんだろうかと、じいっと見つめることになる。でも、この句を好きになれる人は少ないでしょうね。私も同様です。が、春の夕焼を固定観念でなんとなく見ている私などには、反省を強いられる句であることも確かだ。自分の感受性くらい自分で磨けと言った詩人がいたけれど、俳句を考えるときには季語の固定観念に引きずられて、どうも自分の感受性をないがしろにしてしまうところがある。読者に受け入れられようがどうしようが、固定観念では押さえきれない異物感があるのなら、金歯でもなんでも持ちだしてみることは、自分にとって大切なことなのだ。殊勝にも、そんなことを思わされた一句なのでした。蛇足。実際に、総金歯の人に会ったことがある。口の中に財産を貯め込む発想に、うっとりしていた変なおじさんだったけど。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男) April 232002 囀りや少女は走る三塁へつぶやく堂やんま季 April 222002 陽炎や荷台の犬の遠ざかる古澤千秋季語は「陽炎(かげろう)」で春。軽トラックの「荷台」だろうか。私の好みでは昔のオート三輪あたりのそれがふさわしいと思えたが、とにかく「犬」がちょこんと乗っているのだ。この場合、荷台には他の荷物が何も無いほうが良い。引っ越し荷物の隙間などに犬がいるよりは、空っぽの荷台に大人しくうずくまっているほうが「あれっ」と不思議を感じさせられるからだ。運転している飼い主が乗せたのだろうけれど、どう見ても引っ越しではなさそうだし、となれば、何故犬が荷台に乗っているのか。目撃してそう思った次の瞬間には、もう車は発進してしまい、車も犬もゆらめく陽炎のなかに溶けるようにして遠ざかって行った。白日夢と言うと大袈裟になるが、なんだかそれに近い印象を受ける。こういう句を読むと、つくづく「俳句なんだなあ」と思う。こういうことは会話で伝えることも難しいし、散文でもよほどの描写力がないと伝わらないだろう。つまり、ナンセンスを伝えようとするときの困難なハードルを、俳句様式は楽々と越えてしまえるというわけだ。かくのごとき些事を良く伝え、しかも読者にしっかりとイメージづけてしまうところが凄い。むろん、これらのことをよく承知している作者の腕の冴えがあっての上の話だが……。ちなみに、陽炎は英語で「heat haze」と言うようだ。直訳すると「熱靄」かな。英語のほうが理屈的にはより正しいのだろうが、感覚的には「陽炎」の命名のほうがしっくりとくる。俳誌「ににん」(2002年春号・vol.6)所載。(清水哲男)
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