March 042002
春なれや歩け歩けと歩き神山田みづえ春や春。何となく家にとどまっていられない気持ちになって、さしたる目的もないのに、外出することになる。やはり、春だからだろうか(「春なれや」)。しかも、しきりに「歩け歩け」と「歩き神」が促してくるのである。私も、そうだ。これからのほど良く暖かい季節には、休日の原稿書きの仕事がたまっていても、ついつい「歩き神」の命じるままに、少し離れた公園などに足が向いてしまう。帰宅してからしまったと思っても、もう遅い。ところで、この神様はそんなにポピュラーではないと思うが、平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』に出てくる。「隣の一子が祀る神は 頭の縮れ髪ます髪額髪 指の先なる拙神(てづつがみ) 足の裏なる歩き神」。隣家の娘をからかった歌と解釈されており、髪はちぢれて手先は不器用、おまけにやたらとそこらをほっつき歩くというのだから、当時の女性としてはひんしゅく者だった。しかし、それもこれもが娘に宿った神様のせいだよと歌っているところに、救いはある。すなわち「歩き神」とは、人間を無目的にほっつき歩かせる神というわけで、決して健康のためにウォーキングを奨励するような真面目な神様ではない。しかも足の裏に宿っているというのだから、取りつかれた人はたまったものではないだろう。足が、勝手に動くのだからだ。このことを踏まえて、もう一度掲句に戻れば、何もかもをこのどうしようもない神様のせいにして、「ま、いいか」と歩いている作者の楽しい心持ちがよく伝わってくる。『木語』所収。(清水哲男) March 032002 立子忌や岳の風神まだ眠る市川弥栄乃季語は「立子忌」で春。実は、今日三月三日が星野立子の命日である。雛祭の日に亡くなった女性は数えきれないほどおられるだろうが、何も女の子のハレの日に亡くならなくとも……と思えて、ひどく切ない。ましてや、立子にはよく知られた名句「雛飾りつゝふと命惜しきかな」がある。切なすぎる。作者はこの切なさを踏まえて、あえて雛飾りから目を外し、遠くの「岳(だけ)」に目をやっている。ここが、掲句の眼目だ。岳には、やがて春の嵐をもたらす「風神」も「まだ」ぴくりともせず静かに眠っている。立子の住んだ鎌倉でも、春一時期の風は強く激しい。彼女の安らかな眠りのためには、三月三日とはいえ、むしろ風神が荒れ狂う日などよりも余程よかったのではなかろうか。静かな眠りにつかれたのではなかろうか。立子を尊敬する作者は、そう自分自身に言い聞かせているのだと読んだ。だいぶ以前に当欄で書いたことだが、私は「○○忌」なる季語は好きではない。使うのなら、身内や仲間内で勝手にやってくれ。いかに高名な俳人の命日であろうとも、こちらはいちいち覚えてはいられないからと。そんな私が掲句について書いたのは、やはり雛祭と女性である立子の忌日が同じであるという哀しさ故である。忌日で思い出すのは、もう一人。宝井其角は、旧暦二月三十日に世を去った。新暦だと、彼の命日は永遠にやってこない理屈である。俳誌「草林」HomePage所載。(清水哲男) March 022002 囀りにきき耳立てるごはん粒寺田良治季語は「囀り(さえずり)」で春。繁殖期の鳥の雄の縄張り宣言と雌への呼びかけを兼ねた鳴き声のこと。いわゆる「地鳴き」とは区別して用いる。これから、だんだん盛んになってくる。さて、掲句で「きき耳」を立てているのは「ごはん粒」だと書いてある。そのままに受け取って、ちっぽけなごはん粒が、いっちょまえなしたり顔をして囀りを聞いている可笑しさ。それだけでも可笑しいけれど、このごはん粒が、実は人の頬っぺたにぽつんとくっついていると読むと、なお可笑しい。だから、実際にきき耳を立てているのは人なのだが、頬っぺたのごはん粒は目立つから、まるでその人といっしょになって一心に聞いているように見えたというわけだ。きき耳を立てるとは注意深く聞くことだけど、その前にもっと注意深くすることがあるでしょう……。何か忘れちゃいませんか。そんな含みもありそうだ。楽しい句だ。子供のころ、ごはん粒をつけている子を見かけると、歌うように「○○ちゃん、お弁当つけてどこ行くの」と言った。見なかったふりをして小声で、遠回しに注意したものだ。「ついてるよ」とストレートに言って恥をかかせるよりも、笑いに溶かしてしまう情のある注意の仕方である。子供にも、粋なところがあった。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)
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