September 292001
秋晴の空気を写生せよといふ
沢木欣一
作者自註に「『空気が写生出来なければ駄目だ』と棟方さんが語った。終戦間もなく富山県福光町に疎開中の棟方さんを訪ねた頃のこと」とある。「棟方さん」とは、棟方志功のことだ。いかにも画家らしい言葉だが、あらゆる表現者に通ずるところがあると思う。言葉の意味としては、別に突飛でも難しくもない。たとえば「秋晴」に何をどのように感じるかは、何も感じないことを含めて、人さまざまである。このときに、どういう感じ方をしても自由なわけで、それがその人なりの「秋晴」という事象の「把握」だ。表現をしない人は常に事象を把握するのみにとどまるが、むろんそれはそれで一向に構わない。だが、ひとたび自分が把握したすべてを正確に他人に伝えようとなると、どうしても見えない「空気」を見えるように「写生」しなければならない。……と「棟方さん」は言うのである。考えてみれば、誰のどんな「把握」であろうとも、心のなかでは既に「空気」までをも「写生」した状態にあるわけだ。それをそのまま出す(「写生」する)ことができなければ「駄目」なんだと、画家はしごく当たり前のことを述べたのであった。それにしても、作者は「棟方さん」の言葉をそのまんま句にして、なおいまひとつ真意がつかめずに考え込んでいるようだ。その考え込んでいる「空気」がそのまんまに「写生」されているので、句になったというところか。『二上挽歌』所収。(清水哲男)
September 282001
秋刀魚焼かるおのれより垂るあぶらもて
木下夕爾
たいてい「秋刀魚」を焼く句というと、菜箸(さいばし)に火がついたとか、煙がものすごいとか、当の魚それ自体の焼かれる状態には目をやらずに詠む。目がいかないのではなくて、目はいっているのだが、見なかったことにして詠むのである。何故か。書くまでもないだろうが、これから食べようかという相手を、人は同じ生物レベルで認めたくないからだ。認めたなら、すなわち共食いになるからだ。共食いを感性的に忌避するのは、人間だけだと思う。人が自然界で弱いほうの生物として生き永らえてきたのは、まずは人間同士の共食いを可能なかぎりに避けてきた知恵からではないだろうか。したがって人食い人種(と言われた人たちの真実は知らないが)は、極めて「人為」的に淘汰されてしまった。共食いを人類生存の障害として排除してきた別種の表現形態や様式が、食欲とは何の関係もない風情で、しれっと文化文明として我々の前に立っていると思うと、これはこれで興味深い。掲句の作者は、そうしたことどもに半ば本能的に苛立ち、共食いを直視せよと言わんばかりなのである。人にも我が身を焼く「あぶら」はあるじゃないか、と。このときに、自分自身の「あぶら」で身を焼かれている「秋刀魚」を哀れとも、ましてや滑稽と言うのではない。むしろ掲句は、共食いを直視できない人間の哀れと滑稽を言いたかったのだと思う。淡く透明な抒情詩をたくさん書いた詩人にしては、めずらしく原初的な怒りを露(あらわ)にした句だ。ただし賭けてもいいが、この人は「秋刀魚」が好物ではなかったと、それだけは言えるだろう。『遠雷』(1959)所収。(清水哲男)
September 272001
蝗炒るむかし兵馬を征かしめて
糸 大八
季語は「蝗(いなご)」で秋。蝗を炒(い)りながら、昔のことを思い出している。思い出しているのは、自分のことというよりも、村の出来事であり歴史である。毎年秋になると、どの家でも、こうして蝗を炒ってきた。いまも炒る。そのことは昔とちっとも変わらないが、変わったこともいろいろとある。で、いちばん村が激変したときといえば、戦時だった。若い衆には赤紙が来て次々に出征していき、農耕馬も軍馬として徴用されていった。見送ったのは老人と女子供であり、残された者に銃後の農作業は辛く厳しいものであった。遂に帰ってこなかった若い衆もいたし、馬たちは一頭も戻ってはこなかつた。いまにして思えば、残った者は人や馬を「見送った」のではなくて、むしろ能動的に「征(ゆ)かしめ」たのではなかったのか。「兵馬を征かしめて」、「むかし」もこうやって平時のように蝗を炒ったものだ。その行為は平時のいまも変わらないが、変わらないからこそ、炒るという平凡で不変な行為が「むかし」の変事を鮮明に炙り出してくるのである。しかし、痛恨という思いではない。時代の高揚感にみずからも昂ぶり、日の丸を打ち振って「征かしめ」たおのれの卑小さを思うのみなのである。作者は現在の六十歳代だから、当時はほんのちっぽけな子供でしかなかった。なのに、この句だ。胸をうたれる。「俳句界」(2001年10月号)所載。(清水哲男)
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