ポツダム・サミットなんてのもありましたね。トルーマン、チャーチル、スターリン。貫録が違う。




2001年句(前日までの二句を含む)

July 2272001

 夏の夜や崩て明し冷し物

                           松尾芭蕉

少納言は「夏は、夜」がよろしいと言った。「月のころはさらなり、闇もなほ、螢の多く飛びちがひたる」。違いないが、健全な風流心にとどまっている。そこへいくと、掲句の「夏の夜」はよろしいようなよろしくないような、とにかく健全さは読み取れない。「なつのよやくずれてあけしひやしもの」と読む。句会が宴会に転じ、ずるずると飲みかつ語るうちに、夜がしらじらと明け初めてきた。その光のなかで卓上を見やれば、昨夜のせっかくの冷えた酒肴も見苦しく崩れてしまっている。みんなの顔もとろんと大儀そうで、ああ適当に切り上げておけばよかったのにと、後悔の念にかられているのである。眼目は、実際に「崩て」いるのは「冷し物」なのだが、座全体が「崩て」しまっている雰囲気を、崩れた「冷し物」に象徴させているところだ。徹夜の酒席の常であり、江戸期も現代も同じことで、最後はこの狼藉ぶりに後悔しながらのお開きとなる。蛇足ながら、旅にあった芭蕉は別室ですぐに休めたろうが、朝のまぶしい光のなかを歩いて帰宅する人もいたはずで、そんな人は一句ひねるも何もなかっただろう。私はいま、若き日に徹夜で飲んだ果ての新宿の早暁の光を思い出している。(清水哲男)


July 2172001

 貧乏な日本が佳し花南瓜

                           池田澄子

瓜は、日本が貧乏だったころを象徴する野菜だ。敗戦の前後、食料難の時代には、いたるところで南瓜が栽培されていた。自宅の庭はもとより、屋根の上にまで蔓を這わせていたのだから、忘れられない。花は夏の間中咲きつづけ、次から次へと実を結ぶ。肥料もままならなかったのに、よほど生命力が強くたくましい植物なのだ。屋根の上の花はともかく、だいたいが地べたにくっつくように咲くので、黄色い花は土埃をかぶって汚らしい印象だった。あまり暑い日には、不貞腐れたようにしぼんでしまう。しぼむと、しょんぼりとして、ますます汚らしい。南瓜ばかり食べて、人々の顔は黄色くなっていた。そんな時代のことを、作者は豊かな日本の畑の一画に「花南瓜」をみとめて、思い出している。肥料も潤沢だから、きっとこの花は、写真に撮って図鑑に載せてもよいくらいに奇麗なのだろう。しかし作者は、きっぱりと「貧乏な日本が佳(よ)し」と言い切っている。貧乏がよいわけはないけれど、いまのような変な豊かさよりは、断じて「佳(よ)し」と。この断言は、さまざまなことを思わせて、心に沁みる。変化球を得意とする作者が、珍しく投げ込んできた直球をどう打ち返すのか。それは、読者個々の思いにゆだねなければなるまい。『ゆく船』(2000)所収。(清水哲男)


July 2072001

 葉も蟹も渦のうちなる土用かな

                           依光陽子

日は「土用」の入りだ。春夏秋冬に土用はあって、その季節の終わりの十八日間を言う。陰陽五行説。夏の土用は暑さのピークで、他のそれに比べて季節感が際立つために、単に「土用」といえば夏の土用を指すのが一般的だ。俳句でも夏の季語とされてきた。掲句は、渦巻く水のなかで「葉も蟹も」もみくちゃにされている。「葉も蟹も」に小さな命を代表させているわけで、実際にこんな情景を見られたとしたら、見ている人間も「渦」に吸い込まれ巻き込まれる一つの小さな命に思えてくるに違いない。作者の実見かどうかには関係なく、うだるような暑さの「渦」に翻弄される命のありようが、よく伝わってくる。「土用」で付け加えておけば、今日からの十八日間が元来の「暑中」なので、いまでも律義な人はこの期間中にしか暑中見舞状を出さない。私の知りあいにも、そういう人がいる。また、気になる今年の「土用の丑」は7月25日(水)だ。いずれにしても、夏の真っ盛りがやってきました。読者諸兄姉におかれましては、ご自愛ご専一にお過ごしくださいますように……。「俳句研究」(2001年8月号)所載。(清水哲男)




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