August 142000
枝豆やこんなものにも塩加減
北大路魯山人
作者は、あの陶芸家の魯山人。料理の研究家としても有名だった。たしかに、言えている。「こんなものにも」そして「どんなものにも」、ちょっとした匙加減一つで美味くもなれば不味くもなる。句の出典は不明。たまたま、辻嘉一(懐石料理「辻留」主人)の『味覚三昧』(1979)を読んでいて思い出した。両者は面識があったのだが、この本にこの句は載っていない。いったい、どこで私はこの句を知ったのだろう。で、辻嘉一は書いている。「塩水を煮立たせた中へ大豆を入れ、蓋をしないで茹でると色よく茹であがります。しかし、本当の旨味は、水から塩加減の中でゆっくり軟かく茹でて、蓋をしておき、冷えるのを待っていただくと、その味わいは素晴しく、歯ざわりりはむっちりとして、味が深いものですが、退色して茶っぽくなり、いくらでも食べられるので気をつけましょう」。とすると、ビアホールなどで出てくる緑色の「枝豆」は、本当の旨味を引き出していないわけだ。子供のころに母が茹でてくれたものは、そう言えば、きれいな色はしていなかった。「塩加減」ならぬ「茹で加減」が違ったのだ。「色」か「味」か。現代では、圧倒的に「色」のよいものが好まれる。なお「枝豆」は、それこそビアホールなどで初夏くらいから出回るために、旬はとっくに過ぎていると錯覚している人もいるようだ。が、実はこれから。秋の季語。「豆名月」という季語もあり、名月に供えるのは「枝豆」と決まっている。(清水哲男)
August 132000
別宅という言葉あり蝉しぐれ
穴井 太
だいたいが、この人はよくわからない句をたくさん作った。私など、句集を読んでも半分以上はわからない。この句も、然り。ただ、わからないながらも、何となく気になる句が多いのだ。読者の琴線に触れるというよりも、琴線に近いところまではすうっと近づいてくる。が、それ以上は何も言ってくれない。そのたびに苛々させられるのだが、かといって、縁切りにはされたくないと思ってきた。もしかすると、こうした「もどかしさ」の魅力が、穴井太を俳句作家として支えていたのかもしれない。掲句からわかることは、読んで字のごとし。「蝉しぐれ」のなかで、ふと「別宅」という言葉を思い出したと書いているだけだ。作者は長い間、中学校の教員だった。してみると、夏休み中の早い勤務帰りだろうか。「別宅」には別邸や別荘とは違って、「本宅」にいる本妻とは異なる女性の影がある。単に、別の家という意味じゃない。永井荷風のように、常に「別宅」のあった文学者もいたわけで、これからそういう家に行く途中の自分を、ふっと空想したということなのだろう。そうだとしたら、この暑苦しいだけの「蝉しぐれ」も、よほど違って聞こえただろうに。でも、現実は「言葉」だけでのこと。人生には、実に「言葉」だけの世界が多いなア。一瞬の空想の空疎さを、力なく笑ってしまったというところか。蝉しぐれはいよいよ激しく、なお「本宅」までの道は遠い。……とまあ、これも一読者としての私の「蝉しぐれ」のなかの「言葉」だけでしかないのである。『穴井太句集』(1994)所収。(清水哲男)
August 122000
いつまでも捕手号泣す蜥蜴消え
今井 聖
試合に敗れたチームの「捕手」が、ベンチ脇の草叢に突っ伏して、声をあげて泣いている。プロテクターやレガーズをつけたままだから、「捕手」と知れる。チームメイトが肩などを叩いてやるが、いつまでも泣きやまない。高校野球の地方予選では、ときおり目にする光景だ。このときに「蜥蜴(とかげ)消え」とは、彼の夏が終わったことを暗示している。「蜥蜴」は夏の季語。でも、なぜ「蜥蜴」なのだろうか。彼が「捕手」だからだと、私は読んだ。「捕手」の目は、ナインのなかで一番地面に近い。グラウンドの片隅にある投球練習場所の近くには、たいてい草叢があるので、そこに出没する「蜥蜴」を、彼はいつも目にしてきたわけだ。他の選手は、草叢に「蜥蜴」がいることさえ知らないだろう。でも、負けてしまったので、この夏にはもう「蜥蜴」を見ることもないのである。したがって、作者は「蜥蜴消え」と押さえた。投手を詠んだ句は散見するが、素材に「捕手」を持ってくる句は少ない。地味なポジションに着目するあたり、作者はよほどの野球好きなのだろうか。「グロウブを頭に乗せて蝉時雨」と、微笑を誘われる句もあるので、相当に熱心な人のようではある。「俳句文芸」(2000年8月号)所載。(清水哲男)
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