July 032000
冷蔵庫西瓜もつともなまぐさし
山田みづえ
冷蔵庫をひんぱんに利用する主婦ならではの発見だ。「もつとも」と言うのだから、肉だとか魚だとかの生臭物も入っている。そのなかで、意外にも「西瓜」がいちばん生臭く見えている。もとより、西瓜にも独特の匂いはあるけれど、ために西瓜嫌いの人も結構いるけれど、作者はそういうことを言っているわけじゃない。西瓜は季節物だし、加えて場所もとるし色彩も派手だから、庫内の情景をがらりと代えてしまう。存在感が生々しく、心理的にはむうっと匂ってくるほどだということ。脱線するが、人間にも句の冷蔵庫のなかの西瓜のように、なぜか生臭く存在感の強い人がいる。季節物のごとく、初対面から注目を集め他を圧する雰囲気のある人。そういう人は、とりわけて芸能界に多い。でも、私の乏しい体験からすると、美空ひばりなどの「大物」には案外存在感はなく、むしろ大物をコントロールする役目の人に多かった感じだ。そりゃ、そうかもしれない。私がインタビューしたときの美空ひばりは舞台(冷蔵庫)から外に出ていたのだし、そのときのマネージャーは仕事の場という庫内にいたのだから。ということは、誰でもそれなりの冷蔵庫のなかにいるときには、本人の自覚とは関係なく、他者を心ならずも圧してしまうこともある理屈となるわけだ。ええっと、何の話をしてたんでしたっけ(苦笑)。『手甲』(1982)所収。(清水哲男)
July 022000
山百合の天に近きを折り呉るる
櫛原希伊子
俳誌「百鳥」が届くと、待ちかねて同人欄で最初に読むのが、櫛原希伊子の句だ。この人の句は、なによりも思い切りがよい。「天に近きを」と言ったのは、事実描写であると同時に、山百合のこの上ない美しさに「天」を感じたからだ。野生の山百合には、他の百合には及ばない気高さがある。この気高さは、たしかに「天」を思わせる。小学校の通学路(山道)に、山百合の乱れ咲く小高い山があった。たまに道草をして、山百合や小笹の群生する丘を分けのぼり、寝転がって空を眺めるのが好きだった。空からは、長閑な閑古鳥の声が聞こえ、細目で真下から見上げる花の美しさは、子供心にも強く訴えてくるものがあった。後に「山のあなたの空遠く、さいわい住むと人の言う」ではじまるカール・ブッセ(だったかしらん)の詩を習ったが、私にはとうてい外国人の詩とは思えなかった。なんだか、その頃の自分の気持ちを代弁してくれているように感じたからである。詩に山百合は出てこないが、私にははっきりと見えるような気がした。いまでも、この詩を思い出すと、まっさきに山百合の姿が浮かんでくる。山百合の句で人口に膾炙しているのは、富安風生の「山百合を捧げて泳ぎ来る子あり」だろう。風生の句もまた、事実描写であるとともに、その気品のある美しさへの思いを「捧げて」に込めている。やはり、「天」に通じているのだ。『櫛原希伊子集』(2000・俳人協会刊)所収。(清水哲男)
July 012000
夕月に七月の蝶のぼりけり
原 石鼎
美しい。文句なし。暮れ方のむらさきいろの空に白い月がかかって、さながらシルエットのように黒い蝶がのぼっていった。まだ十分に暑さの残る「七月」のたそがれどきに、すずやかな風をもたらすような一句である。「月」と「蝶」との大胆な取りあわせ。墨絵というよりも錦絵か。しかし、そんじょそこらの「花鳥風月図」よりも、もっと絵なのであり、もっと凄みさえあって美しい。掲句に接して、思ったこと。私などのように、あくせくと何かに突っかかっているばかりでは駄目だということ。作者の十分の一なりとも、美的なふところの深さを持たなければ、せっかく生きている値打ちも薄れてしまう。このままでは、美しいものも見損なってしまう。いや、もうずいぶんと見損なってきたにちがいない……。「増殖する俳句歳時記」開設四周年にあたって、もう一つ何かに目を開かれたような気分のする今日このときである。今後とも、どうかよろしくおつきあいのほどを。ちなみに、句を味わっている読者の雰囲気をこわすようで恐縮だが、本日は昼の月で月齢も28.6。残念ながら、晴れていても見えない。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
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