季語が夏の月の句

June 1562000

 京の雨午前に止みぬ金魚鉢

                           川崎展宏

行者の句だ。言葉による絵はがきがあるとすれば、こういうものだろう。旅先ではことさらに鬱陶しく感じられる雨が、ようやく上った京の町でのスケッチ。葭簀(よしず)の掛けてある小さな店に金魚鉢が置かれているのを、ちらりと認めたというところか。雨上がりを喜ぶ心に、いかにも京都らしい風情が好もしく思えている。昨日掲載した高屋窓秋の作句態度とは異なり、川崎展宏のそれは一貫して、いわば風袋(ふうたい)を軽くする態度で書かれてきた。第一句集『葛の葉』の跋に曰く。「俳句は遊びだと思っている。余技という意味ではない。いってみれば、その他一切は余技である。遊びだから息苦しい作品はいけない。難しいことだ。巧拙は才能のいたすところ、もはやどうにもならぬものと観念するようになった」。このとき、作者は四十六歳。あくまでも、俳句が中心。その中心が「遊び」だというのだから、この態度もなかなかに辛いだろう。いつだったか、作者が俳句に目覚めた句として、芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」をあげた話を聞いたことがある。作者の「遊び」の意味が、少しはわかったような気がした。『葛の葉』(1971)所収。(清水哲男)


July 2372001

 市中は物のにほひや夏の月

                           野沢凡兆

の出のころを詠んでいる。一般的に「夏の月」といえば、心理的に夜涼を誘う季語である。が、まだ「市中(いちなか)」に「物のにほひ」があるというのだから、赤くほてるような感じで月がのぼってきた時刻の情景だろう。風もなく蒸し暑い「市中」に、ぎっしりと軒をつらねる店々からの雑多な「にほひ」が、入りまじって流れて来、なおさらに暑く感じられる。そのむうっと停滞した熱気が、よく伝わってくる。この句に、芭蕉は「あつしあつしと門々の声」とつけているが、私には気に入らない。臭覚的な「物のにほひ」の暑さから、逃れるようにして空を見上げるようなことは誰にでもある。つまり五感の切り替えというほとんど本性的な知恵なのだが、そこにもかえって暑さを増幅するような月しかなかったという諧謔味を、芭蕉は聴覚的に解説してみせたのだろう。でも、言うだけ野暮とはこのことで、凡兆は「あつしあつし」とストレートに表現する愚を避け、わざわざ工夫と技巧をこらして迂回したというのに、「それを言っちゃあお終いよ」ではないか。連句は、第一に気配りの文芸だ。この日の芭蕉は、よほど機嫌が悪かったのかもしれない。参考までに、機嫌がよいときの芭蕉の名句を。「蛸壺やはかなき夢を夏の月」。(清水哲男)


July 2372002

 夕すずみよくぞ男に生れけり

                           宝井其角

やあ、暑いですねえ。本日は二十四節気の大暑(たいしょ)という日にあたります。極熱の盛んなるとき、一年中でいちばん暑いときと言われてきた。其角の生きていた江戸時代には、むろん冷房装置などはないので、夕方になると表に出て涼を取った。そして男は、表でも浴衣の腕もまくれば尻もはしょる。女性にはそれが出来なかったから、「よくぞ男に生れけり」なのである。が、いまの時代に其角がいたとしたら、とてもこう詠む気にはならないだろう。理由は、一分間ほど街を歩いてみれば、誰にでもわかること。それにしても、反俗の俳人にしては、実に他愛ない句だ。酔っぱらっての落書きみたいだ。ではあるけれど、この句ほどに有名になった句も珍しい。なかには俳句とは知らずに、この文句のバリエーションを口にしてきた人も多いだろう。その意味では、山口素堂の「目には青葉」の初鰹の句と双璧をなす。後者にはまだ技巧的な仕掛けがあるけれど、この句には何もない。なぜ、こんな句を作ったのか。私には永遠の謎になりそうだ。つまらなさついでに、其角句をもう一つ。「夏の月蚊を瑕にして五百両」。例の「春宵一刻値千金」を踏まえていて、夏の月も本来ならば「千金」のはずなのだが、蚊が出てくるのが(タマに)「瑕(きず)」であり、半額の値打ちにせざるを得ないという意味だ。作者が考えた割に「よくぞ」ほど俗受けしなかったのは、見え透いた下手な仕掛けのせいだろう。両句ともに、あまりの暑さで、さすがの其角の頭もよくまわらなかったせいかとも思われてきた。重ねて、暑中お見舞い申し上げます。(清水哲男)


August 0482002

 河童の恋する宿や夏の月

                           与謝蕪村

河童
際に蕪村の前にある情景は、黒々とした沼の上に月がのぼっているだけである。その沼を「河童(かわたろ)」の宿(住み処)と見立てたところから、蕪村独特の世界が広がった。河童が恋しているのは同類の異性とも読めるが、それでは面白くない。彼の思慕する相手が人間と読んでこそ、不思議な気配が漂ってくる。そう読むと、この月も花札に描かれているような幻想的なそれであり、やや赤みを帯びているようにすら思われる。こともあろうに人間を恋してしまった河童の苦しみが、辺り一面に妖気となって立ち上っている……。さて、これから河童はどんな行動に出るのだろうかと、さながら夏の夜の怪談噺のまくらのような句だ。このように読者をすっと手元に引き寄せる巧みな詠みぶりは、蕪村の他の句にもたくさん見られる。ときにあまりにも芝居がかっていて鼻白んでしまうこともあるけれど、掲句ではそのあたりの抑制は効いていると思った。河童の存在については、諸説あってややこしい。いずれにしても、掲句は人々がまだ身近に河童を感じていた時代ならではの作品だ。蕪村のころの読者ならば、ただちに河童の恋の相手が人間だとわかっただろう。絵は小川芋銭の「河童百図」のうち「葭のズヰから(天井のぞく)」。(清水哲男)


June 2162003

 梅雨の月金ンのべて海はなやぎぬ

                           原 裕

語は「梅雨の月」。降りつづく雲間に隠れていた月が、ふっと顔を出した。すると、真っ暗だった海の表が「金(き)ン」の板を薄く延べ広げたように「はなや」いで見えたのだった。あくまでも青黒い波の色が金箔に透けて見えていて、想像するだに美しい。「はなやげり」とはあるが、束の間の寂しいはなやぎである。句を読んですぐに思い出したのは、小川未明の『赤いろうそくと人魚』の冒頭シーンだった。「人魚は、南の方の海にばかりすんでいるのではありません。北の海にもすんでいたのであります」。と、書き出しからして、寂しそうな設定だ。「北方の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色をながめながら休んでいました。/雲間からもれた月の光がさびしく、波の上を照らしていました。どちらを見てもかぎりない、ものすごい波が、うねうねと動いているのであります。……」。どこにも梅雨の月とは書いてないけれど、この物語の不思議で寂しい展開からして、梅雨の月こそが似つかわしい。そして、掲句の海の彼方のどこかから、こうして人魚がこちらを見ていると想像してみると、いかにも切ない。そんな想像を喚起する力が、句にそなわっているということだ。なお「金ン」としたのは、「金」と書いても「カネ」と誤解する読者はいないだろうが、やはり文字面からちらりとでも「カネ」と読まれることを排したかったのだろう。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


July 1172005

 生きていることの烈しき蛸つかむ

                           吉田汀史

国で育ち、あとは都会でしか暮らしたことがないので、海のものにはほとんど無知である。掲句の季語を迷いなく「蛸(たこ)」で夏期ととってしまったのも、その証拠のようなものだ。念のためにと思い手元の歳時記にあたってみたところ、季語「蛸」が見当たらないのには愕然とした。「迷いなく」思い込んでいたのは、どうやら芭蕉の有名な「蛸壺やはかなき夢を夏の月」が頭にあったからのようだ。だが、この句でも蛸は季語ではない。ただし調べてみると、蛸の水揚げ量が最も多いのは産卵期にあたる春から夏にかけてだそうだから、徳島在住の作者にとっての蛸漁は、春ないしは夏のイメージなのだろうと推察した次第だ。そんなふうだから、私はもちろん生きた蛸をつかんだことはない。けれども、掲句の言わんとするところはよくわかる。もはやぐたっとなっているかに見えた蛸をつかんだら、想像以上予想外の強力な「抵抗」にあい、たじたじとなると同時に、生命あるものの激しさに畏怖を覚えたのだった。私がそのことを肝に銘じたのは、中学一年のときだったろうか。教室で野ウサギの解剖をしている最中に、麻酔の切れたウサギが猛然と暴れ出したことがあった。思い出すだに冷たい汗の出てくる体験だが、生命の力とは強いものだ。だからこそ逆に、いざ生命が失われてみると、そのはかなさがより強く印象づけられるのだろう。俳誌「航標」(2005年7月号)所載。(清水哲男)

[ 訂正というか…… ]読者からのご教示もあり調べたところ、夏の季語に「蛸」を採用している歳時記がいくつかあることがわかりました。平凡社版、学研版、講談社版など。当歳時記は角川版(ときに河出版)に準拠しており、同版にはないのですが、作者の句風からみて「蛸」を季語としたほうが妥当と考え、夏期に分類することにしました。同様の問題はたまに出現し、悩まされるところです。


May 1252007

 病身の足のうら美しく夏

                           井上花鳥子

常生活では、寝ている時以外はほとんど、足のうらは靴に閉じこめられ押しつけられ、自重と垂直抗力のせめぎ合いの中にいる。医師であった作者だが、専門は精神神経科。〈梅雨の月あした切らるゝ胸の上に〉の句と前後していることからもこの句は、大学卒業の翌年、自身が入院していた時の作と思われる。大方病は癒えて、退院も近い頃だろう。あらためて、筋肉が落ち細くなった体を確認。足をさすりつつ折り、その先の足のうらを見る。足のうらにとっても思わぬ長期休暇、解放され続けていたその皮膚はやわらかい。それはあらためて、病の重さを実感するほの白さであり、すこしかなしい美しさでもある。ここまでの十五音の重さを、最後の、夏、が力強く受けとめる。静と動の美しさ。溢れんばかりの緑と生命力溢れる初夏の風に、若い作者の決意と希望が感じられる。その後〈吾を殴りたりし患者と日向ぼこ〉等、医師としての日常を詠んだ句も多くある作者の俳号の花鳥子(かちょうし)は、本名の勝義と、花鳥諷詠にちなんでとのこと。郵便屋に「いのうえかちょこさ〜ん」と呼ばれて情けない思いをしたという逸話も。『辰巳』(1984)所載。(今井肖子)


June 0462007

 夏の月ムンクの叫びうしろより

                           阿部宗一郎

まりにも有名なムンクの「叫び」。血の色のように濁った空の下で、ひとりの人物が恐怖におののいた顔で耳をふさいでいる。つまり題名の「叫び」はこの人物が発しているのではなく、赤い空に象徴された自然が発している得体のしれない声なのだ。掲句はしたがって、この人物の位置から詠まれている。季語「夏の月」は、多く涼味を誘われる景物と詠まれているが、この場合は花札にあるような不気味さを伴ってのぼってくる月と読める。その火照ったような光を見ていると、まさにムンクの「叫び」が「うしろより」聞こえてくると言うのである。作者は兵士としてかつての戦争を体験し、長くシベリアに抑留された人だ。だから「夏の月」を見ても、いまだに風流を覚えるというわけにはいかないのである。「夏の月耳に砲声消ゆるなし」の句もあり、掲句の「叫び」は砲声も含むが、それよりも戦場に斃れた数多くの戦友たちの無念の声でなければならない。戦後六十余年、もはや多くの人には仮想現実のようにしか思えないであろうあの悲惨を、現実のものとして捉え返せという切実な「叫び」がここにある。『君酔いまたも逝くなかれ』(2006)所収。(清水哲男)


June 1062008

 海底のやうに昏れゆき梅雨の月

                           冨士眞奈美

雨の月、梅雨夕焼、梅雨の蝶など、「梅雨」が頭につく言葉には「雨が続く梅雨なのにもかかわらず、たまさか出会えた」という特別な感慨がある。また、前後に降り続く雨を思わせることから、万象がきらきらと濡れて輝く様子も思い描かれることだろう。夕暮れの闇の不思議な明るみは確かに海底の明度である。空に浮かぶ梅雨の月が、まるで異界へ続く丸窓のように見えてくる。ほのぼのと明けそめる暁を「かはたれ(彼は誰)」と呼ぶように、日暮れを「たそかれ(誰そ彼)」と呼ぶ。どちらも薄暗いなかで人の顔が判別しにくいという語源だが、行き交う誰もが暗がりに顔を浸し輪郭だけを持ち歩いているようで、なんともいえずおそろしい。昼と夜の狭間に光りと影が交錯するひとときが、梅雨の月の出現によって一層ミステリアスで美しい逢魔時(おうまがとき)となった。〈白足袋の指の形に汚れけり〉〈産み終へて犬の昼寝の深きかな〉〈噛みしめるごまめよ海は広かつたか〉俳句のキャリアも長い作者の第一句集『瀧の裏』(2008)所収。(土肥あき子)


June 1462009

 家は皆海に向ひて夏の月

                           正岡子規

うなのか、と思います。たしかに家にも正面があるのだと、あらためて気づかせてくれます。海に向かって表側を、意思を持ってさらしているようです。扉も窓も、疑うことなくそうしています。一列に並んだ同じような大きさの家々の姿が、目に見えるようです。この句に惹かれたのは、ものを創ろうとする強引な作為が、見えなかったからです。家も、海も、月も、静かに句に導かれ、収まるところに収まっています。作り上げようとするこころざしは、それをあからさまに悟られてはならなのだと、この句は教えてくれているようです。家々が海に向かっているのは、海と対峙するためではなく、生活のほとんどが海との関わりから成り立っているためなのでしょう。朝起きればあたりまえのように海へ向かい、日の入りとともに海から帰ってくる。単純ではあるけれども、生きることの厳かさを、その往復に感じることが出来ます。梅雨の間の月が、そんな人々の営みを、さらに明らかに照らしています。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


July 2972009

 夏の月路地裏に匂うわが昭和

                           斎藤 環

は本来秋の季語だが、季節を少々早めた「夏の月」には、秋とはちがった風情を思わせるものがある。しかも路地裏で見あげる月である。一日の強い日差しが消えて、ようやく涼しさが多少戻ってきている。しかし、まだ暑熱がうっすらと残っている宵の路地だろうか。「わが昭和」という下五の決め方はどこやら、あやうい「くせもの」といった観なきにしもあらずだが、ホッとして気持ちは迷わず昭和へと遡っている。大胆と言えば大胆。「路地裏」と「わが昭和」をならべると、ある種のセンチメンタリズムが見えてくるし、道具立てがそろいすぎの観も否めないけれど、まあ、よろしいではないか。こんなに味気なくなった平成の御代にあって、路地裏にはまだ、よき昭和の気配がちゃんと残っていたりするし、人の心が濃く匂っていたりする。そこをキャッチした。同じ作者には「大宇宙昭和のおたく「そら」とルビ」という句もある。同じ昭和を詠んでいながら、表情はがらりとちがう。作者は1961年生まれの精神科医。そう言えば、久保田万太郎に「夏の月いま上りたるばかりかな」という傑作があった。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)


June 1162011

 欠けて行く力を溜めて梅雨満月

                           関根誠子

雨入り前、朝のベランダでうすい下弦の月が新樹の風に消えてゆくのを日ごと眺めていた。色を深める木々の力強さと、どんどん細くなる月。そして朔は先週の二日、今やだいぶふくらんできた月が満ちるのは来週十六日だ。満開の桜も、散る力を溜めているように思えるけれど、梅雨満月もまた自らを削ぎ落としてゆく力を溜めている、と作者には思えたのだろうか。明るい桜に比べ、赤く濡れた梅雨満月の仄暗さはよりいっそう我が身に寄り添い、そんな月と対峙する者は、生きることやこの身が滅びること、その他もろもろの内なる思いと向き合うことになるのだろう。雨がちなこの時期、梅雨満月と出会えるかどうか。『浮力』(2011)所収。(今井肖子)


July 0672011

 病み臥すや梅雨の満月胸の上

                           結城昌治

雨の晴れ間にのぼった満月を、病床から窓越しに発見した驚きだろうか、あるいは、梅雨明けが近い時季にのぼった満月に驚いたのだろうか。いずれにせよ梅雨のせいでしばらく塞いでいた気持ちが、満月によってパッと息を吹き返したように感じられる。しかも病床にあって、仰向けで見ている窓の彼方に出た満月を眺めている。しばし病いを忘れている。病人は胸をはだけているわけではあるまいが、痩せた胸の上に満月が位置しているように遠く眺められる。満月を気分よくとらえ、今夜は心も癒されているのだろう。清瀬の病院で療養していた昌治は石田波郷によって俳句に目覚め、のめりこんで行った。肺を病み、心臓を病んだ昌治には病中吟が多い。句集は二冊刊行しているし、俳句への造詣も深かったことは知られている。仲間と「口なし句会」を結成もした。「俳句は難解な小理屈をひねくりまわすよりも、下手でかまわない。楽しむことのほうが大事だ」と語っていた。掲句と同じ年の作に「柿食ふやすでに至福の余生かも」がある。波郷の梅雨の句に「梅雨の蝶妻来つつあるやもしれず」がある。第一句集『歳月』(1979)所収。(八木忠栄)


July 2972012

 橋おちて人岸にあり夏の月

                           炭 太祇

太祇(たんたいぎ)は江戸に育ちました。四十歳を過ぎて京都に上り、島原の遊郭内に不夜庵を結び、晩年は、しばしば蕪村と交わっています。梅雨出水(つゆでみず)で落ちた橋を、百メートル以上のスケールとして読んでみると、物見高い見物衆も、祭りや花火に集うようなそぞろ歩きです。橋が落ちた自然災害を深刻にとらえず、夕涼み恰好の風物にしてしまうところに、江戸時代の浮世を感じます。大雨の後の空は澄み切って、月は皓皓と涼しげです。この時代、物は簡 単に壊れるものでした。というよりも、壊れうるものだという覚悟がありました。それは、人力で組み立てた木橋には、しょせん、大水にはかなわない諦めがあったからでしょう。奈良時代、すでに無常を「飛鳥川の淵瀬」にたとえています。それが、平安末期、鴨長明になると「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」(方丈記)となり、江戸の掲句では「人岸にあり」という集団描写になって、無常を見物にしてしまっています。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


October 27102015

 どうせなら月まで届くやうに泣け

                           江渡華子

うしようもなく泣く赤子に焦燥する母の姿というと竹下しづの女の〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎〉があるが、いくら反語的表現とはいえ世知辛い現代では問題とされてしまう可能性あり。ひきかえ、掲句のやけっぱちなつぶやきは、おおらかでユーモアのある母の姿として好ましいものだ。赤ん坊の夜泣きとの格闘は、白旗をあげようと、こちらが泣いて懇願しようと許されない過酷な時間だ。愛しいわが子がそのときばかりは怪獣のように見えてくるのだと皆、口を揃えるのだから、今も昔も変わらぬ苦労なのである。続けて〈「来ないで」も「来て」も泣き声夏の月〉や〈笑はせて泣かせて眠らせて良夜〉にも母の疲労困憊の姿は描かれる。とはいえ、子のある母は若いのだ。健やかな右上がりの成長曲線は子のものだけではなく、母にも描かれる。100日経ったらきっと今よりずっと楽。がんばれ、お母さん。『笑ふ』(2015)所収。(土肥あき子)


July 0772016

 法善寺にこいさん通り梅雨の月

                           ふけとしこ

日は七夕だけど、この時期星々がまともに見えたことがない。どちらかと言うと雨っぽい空に恋人たちの逢瀬がはばまれる感じである。大阪で「こいさん」は末娘を表すようだけど、今はどのくらい使われているのだろう。「月の法善寺横丁」の歌詞は年配の方なら、ああ、とうなずく有名な歌だが、今どきさらしに巻いた包丁を肌身離さず修行に出るような板前もいないし、その帰りを待つこいさんもいないだろう。水かけ不動の法善寺で月を見上げれば厚い雲に覆われた梅雨空にぼんやりと白い月が透かし見える。法善寺もこいさん通りもその響きが時代に置き去りにされた遠さがあり、その距離感が「梅雨の月」に表されているように思う。「ほたる通信」2016年6月「46号」所収。(三宅やよい)




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