原稿に行き詰まったとき麦酒を飲むと書けることがある。たいていはますます書けなくなる。賭だ。




2000年3月27日の句(前日までの二句を含む)

March 2732000

 たんぽぽのサラダの話野の話

                           高野素十

んぽぽが食べられるとは、知らなかった。作者も同様で、「たんぽぽのサラダの話」に身を乗り出している。「アクが強そうだけど」なんて質問をしたりしている。そこから話は発展して野の植物全般に及び、「アレも食べられるんじゃないか、食べたくはないけれど」など、話に花が咲き、楽しい話は尽きそうにもない。この句は、いつか紹介したことのあるPR誌「味の味」(2000年4月号)の余白ページで見つけた。いつものことながら、この雑誌の選句センスは群を抜いていて、読まずにはいられない。偶然だろうが、これまた楽しみにしている詩のページに、坂田寛夫のたんぽぽの詩「おそまつさま」が出ていた。全文引用しておく(/は改行)。「ストローをくわえるかっこうで/すこしずつ/ウサギの子がたんぽぽを/茎の方から呑みこんでゆく/しまいに花びらが小さい口のふたをした/いいにおいをうっとり楽しむかと思ったら/ひと思いに食べちゃった/「おいしかった」/ため息まで聞こえたような気がしたから/たんぽぽもさりげなく/「おそまつさま」/と答えたかったが/ぎざぎざに噛みひしがれて目がまわり/先の方はもう暗い胃散にこなれかけている」。今日は「味の味」におんぶにだっこ、でした。(清水哲男)


March 2632000

 葛飾や桃の籬も水田べり

                           水原秋桜子

は「まがき」で、垣根のこと。現代の東京都葛飾(かつしか)区というと、私などには工場のたくさんある地帯というイメージが強い。が、句の葛飾は、江戸期以来の隅田川より東の地域全般の地を指している。近代に入ってから、東京、千葉、埼玉に三分割された。昔の東京の小中学校からは遠足の地として絶好だったらしく、少年時の作者も何度か遠足で訪れた土地だという。そのときから作者は葛飾の風景に魅かれ、吟行でも再三訪れており、この地に材をとった句をたくさん作っている。なかでもこの句は、さながら絵に画いたように美しさだ。いや、こうなるともう俳句ではなくて、一枚の風景画だと言ったほうがふさわしい気すらしてくる。葛飾句についての秋桜子のコメントが残っている。「私のつくる葛飾の句で、現在の景に即したものは半数に足らぬと言ってもよい。私は昔の葛飾の景を記憶の中からとり出し、それに美を感じて句を作ることが多いのである」。胸の内で長い間あたためられてきた葛飾のイメージは、夾雑物がすべて削がれて、かくのごとく桃の花のように見事に開いたのであった。『葛飾』(1930)所収。(清水哲男)


March 2532000

 深山に蕨採りつつ滅びるか

                           鈴木六林男

い山の奥。こんなところまでは、さすがに誰も蕨(わらび)など採りには来ない。人気(ひとけ)のないそんな山奥で蕨を摘んでいるうちに、ふと「俺はこのままでよいのか」という気持ちが、頭をよぎった。希望も野望も、何一つ成就できないままに、自分は亡びてしまうのではないか。やわらかくて明るい春の日差しの中で、作者はしばし落莫たる思いにふけることになった。「蕨狩」という季語もあって、これは「桜狩」「潮干狩」のように行楽の意味合いを持つが、この場合は行楽ではないだろう。食料難を補うため、生活のために、作者は蕨を摘んでいるのだ。だから、深山にまで入り込んでいる。大人も子供も、生活のために蕨を摘みに出かけた敗戦直後の体験を持つ私などには、とりわけてよくわかる句だ。子供の私に「亡びる」意識はなかったものの、「こんなところで何をやってんだろう」という気持ちには、何度も囚われた。篭にどっさり採って帰ったつもりが、いざ茹でてみると、情けないほどに量が減ってしまう。あのときの徒労感、消耗感も忘れられない。『新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(清水哲男)




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