February 012000
或日あり或日ありつつ春を待つ
後藤夜半
夜半、晩年の一句。うっかりすると読み過ごしてしまうほどに地味だが、鋭い感性がなければできない句だ。「或日(あるひ)」とは、特筆すべき出来事など何もないような平凡な日の意だろう。「或日」のリフレインは、そうした日々を重ねている時間についての写生である。句の面白さは、そんな平々凡々としか言いようのない時間を過ごしているなかで、しかし、いつしか「春待つ」心が芽生えていることの不思議に気がついたところだ。「春よ、来い」などと大仰に歌っているわけではなくて、自分の心のなかに自然に春を待つ感情が湧いてきている。そのことに気づいたときの、じわりと滲み出てくるような嬉しさ。それがそのまま、読者の「春待つ」心に染み入ってくる。月並みな比喩で恐縮だが、燻し銀の魅力を思わせる句だ。そこにたまたま「今日の客娘盛りの冬籠」となれば、もはや言うことなしか。ただし、俳句の出来からすれば、掲句のほうが格段に上等であることは、読者諸兄姉がご明察のとおりである。今日から二月。明後日は節分。そして四日は、暦の上での「春」となる。遺句集『底紅』(1978)所収。(清水哲男)
January 312000
雪の海底紅花積り蟹となるや
金子兜太
字面を眺めているだけで、一気にゴージャスな気分になってくる。華麗な句だ。そしてよく読み込むと、繊細な感覚の生きた世界でもある。作者は「海底」を「うみそこ」と読ませている。自註が『兜太のつれづれ歳時記』(1992・創拓社)に載っているので、全文を引いておこう。「北陸海岸の宿に泊まって、蟹を食べた。夕方からまた雪がきて、私は雪降りそそぐ日本海の蒼暗を思いやっていた。すると、その昔、奥羽の地に花開いた紅花(べにばな)を積んで、木造船がこの海原を走っていたことを思い出したのである。紅花は船からこぼれ、海底に積もり、やがて蟹になった。いや、そうにちがいない、とまで思いつつ」。私が、これ以上、つけくわえることは何もない。このイリュージョンは壮大で、実に美しい。今夜の夢に、すぐにでも出てきそうな幻想の世界。金子兜太というと、なんとなく武骨で大振りな俳人と思っているムキもあるようだが、その見方はひどく一面的でしかない。彼の作品を初期から子細に見てくると、根底に一つあるのは、まごうかたなきリリシズムへの純粋な没頭だ。そこに誤解される要素があるとすれば、抒情のスケールが並外れて大きいことからだろう。ガラス細工じゃないということ。『早春展墓』(1974)所収。(清水哲男)
January 302000
狼の声そろふなり雪のくれ
内藤丈草
内藤丈草(1662-1704)は尾張犬山藩士、のちに出家した人。蕉門。もう一度、心をしずめて読み返していただきたい。げにも恐ろしき光景。心胆が縮み上がるようだ。狼の姿は見えないが、見えないだけに、恐怖感がつのる。しかも、外はふりしきる雪。そして、日没も間近い薄暗さ。あちらこちらから間遠に聞こえてきていた鳴き声が、ほぼ一所にそろった。「さあ、里にやってくるぞ」と、作者は恐怖のうちに身構えている。三百数十年前のこの国では、狼がこのように出没していたことが知れる。冬場にエサを求めて里にやってくるのは、カラスなどと一緒だ。句は、柴田宵曲『新編・俳諧博物誌』(岩波文庫・緑106-4)で知った。宵曲は「狼の声の何たるかを知らぬわれわれでも、この句を読むと、丈艸の実感を通して寒気を感ずるほど、身に迫る内容を持っている」と、書いている。「声そろふ」で、きっちりと焦点が定まっているからだ。このように、昔は人と狼との距離は近かった。「送り狼」という言葉が残されているほどに……。「日本における人と狼との間には、慥(たしか)に他の野獣と異ったものがあるので、人対獣の交渉というよりもむしろ人対人の交渉に近い」と、宵曲は書いている。(清水哲男)
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