新年初アクセスの方、お帰りなさい。本年もよろしく。職場の機械はちゃんと動いてますか。




20000104句(前日までの二句を含む)

January 0412000

 買初にかふや七色唐辛子

                           石川桂郎

初(かいぞめ)は「初買」とも言い、新年になって初めて物を買うことだ。といっても、スーパーで醤油や味噌などを買うのとは違う。新年を寿ぐために、いささか遊び心の入った買い物をすることを指している。だから、いろいろと買うなかで、本年は「買初となすしろがねの干鰈」(岡本差知子)と思い決めたりする。句として公表するとなれば、おのずから作者のセンスが問われるわけだ。作者は「七色唐辛子」を「買初」とした。なかなかに小粋な選択ではないか。買初コンテストがあるとしたら、必ずベスト・テンには入りそうである。「とうんとうんと唐辛子、ひりりと辛いは山椒の実、すはすは辛いは胡椒の粉、けしの粉、陳皮の粉、とうんとうんと唐辛子の粉」と、これは江戸の町を歩いた振り売りの七色唐辛子屋の売り声だそうな。陳皮(ちんぴ)は蜜柑や柚子の皮。これだと五色しかない計算になるが、実際に五色しかなかったのか、あるいは売り声の調子を出すために二色が省かれているのか。ちなみに「七色唐辛子」は江戸東京の呼び方で、関西では「七味(しちみ)」と言う。日頃の私は「一味」党だけれど、買初に「一味」では、「一」はよくても色気が足りなさ過ぎる。今年の買初は、何にしようかな。(清水哲男)


January 0312000

 賀状うづたかしかのひとよりは来ず

                           桂 信子

かりますよね、この切なさ。ちょっと泣きたくなるような心持ち。三日になっても配達されないということは、もう来ないのだと諦めている。でも、念のために「うづたか」い年賀状の山から、二度三度と見返しているのだろう。たった一枚の紙切れながら、その人にとっては重要な意味を持つ賀状もある。「来ず」と断言してはみたものの、また明日からしばらくは、ドキドキしながら郵便受けをのぞきに出るのである。覚えは私にもあり、しかし来れば來たで簡単な文面の真意を探るべく、けっこう悩んだりするのだから罪な風習もあったものだ。かと思うと、久保より江にこういう句がある。「ねこに来る賀状や猫のくすしより」。「くすし」は「薬師・医」で、つまり猫のお医者さんだ。『吾輩は猫である』には「元朝早々主人の許へ一枚の絵葉書が来た」とあって、主人が描かれている動物の正体がわからず四苦八苦する図が出てくる。つまり、漱石の猫には主人を経由して賀状が届いたのだが、句の場合はストレートに配達されたわけだ。でも、こうして猫には大切な人からちゃんと来ているのに、人には来ないのかと思うと、よけいに掲句が切なく思えてくる。今からでも遅くはない。どこのどなたかは存じませんが、心当たりのある人は、すぐに作者に返事を出してあげなさい。『女身』(1955)所収。(清水哲男)


January 0212000

 留守を訪ひ留守を訪はれし二日かな

                           五十嵐播水

句で「二日」は、正月二日の意。以下「三日」「四日」「五日」「六日」「七日」と、すべて季語である。最近では「二日」も「三日」もたいして変わりはしないが、昔はこれらの日々が、それぞれに特別の表情を持っていたというわけだ。「二日」には初荷、初湯、書き初めなどがあり、明らかに「三日」や「四日」とは違っていた。年始回りに出かけるのも、この日からという人が多かった。私が子供だったころにも「二日」は嬉しい日だった。大晦日と元日は他家に遊びに行くのは禁じられていたから、この日は朝から浮き浮きした気分であった。掲句は、賀詞を述べようと出かけてみたらあいにく相手が留守で、やむなく帰宅したところ、留守中に当の相手が訪ねてきていたというのである。どこで、どうすれ違ったのか。いまならあらかじめ電話連絡をして出かけるところだけれど、昔は電話のない家が大半だったので、えてしてこういう行き違いが起きたものだ。ヤレヤレ……という感興。作者の五十嵐播水は1899年(明治32年)生まれ。虚子門。百歳を越えて、なお現役の俳人として活躍しておられる。あやかりたい。(清水哲男)




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