パソコン好き詩人の忘年会。ひさしぶりの新宿だ。「小便横丁」の焼け跡も見てみたいな。




1999年11月27日の句(前日までの二句を含む)

November 27111999

 鞄あけ物探がす人冬木中

                           高浜虚子

が落ちた冬の木立。少し遠くの方で、鞄をあけて一心に何かを探している人の姿が透かし見えている。見ず知らずの他人でも、物を探しているところを見かけると、こちらまで落ち着かない気分になる。あれは、なぜだろうか。実に不思議な気分だ。地面に落ちた物を探しているのなら一緒に探すこともできるが、鞄の中ではそうもいかない。この寒空の下、立ち止まって探す必要があるのだから、よほど大切な物なのだろう。これから仕事先に届ける書類かもしれないし、貯金通帳や印鑑の類かもしれない。作者は気になりつつ、その場を通りすぎていく。なんでもない句のようだけれど、さすがに虚子のスケッチは巧みだ。冬木中に鞄をあけている男の姿。この切り取りで、ぴしゃりと絵になっている。ただし、これがいまどきに作られた句だと、探し物は「携帯電話」くらいだろうと想像されるので、そんなに面白みはなくなってしまう。何を探しているのか皆目見当がつかないところに、寒い季節の味わいも出ているのである。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


November 26111999

 ロボットと話している児日短か

                           八木三日女

後「前衛俳句」運動のトップランナーであった三日女(「満開の森の陰部の鰓呼吸」「赤い地図なお鮮血の絹を裂く」など)の近作だ(1995)。一読、ほほえましいような光景ではあるが、具体的に場面を想像してみる(たとえば「鉄腕アトム」と話している子供)と、不気味な句に思えてくる。アトムとまではいかないが、最近では人語に反応するロボット玩具が開発されており、句の場景も絵空事ではなくなってきた。不気味というのは、感情を持たない話し相手に感情移入できているという錯覚のそれである。ロボットと話すことで癒される心のありようは、不気味だとしか言いようがない。原理的に考えれば、ロボットに言語を埋め込むのは所有者であるから、ロボットとの対話は自身の一部との会話に他ならず、それもいちいち音声化する必要のない部分との対話である。対話型のロボットは、所有者に都合のよい「甘えの構造」の外在化でしかないだろう。そしてこのとき「日短か(「ひぃみじか」と関西弁で発音してください)」というのは、人類の冬の季節における「短日」の意味に受け取れる。世紀末にふさわしい一句と言うべきだ。(清水哲男)


November 25111999

 蕪汁に世辞なき人を愛しけり

                           高田蝶衣

汁(かぶらじる)は、蕪を入れたみそ汁。寒くなると蕪に甘味が出てくるので、より美味になる。素朴で淡泊な味わいが「世辞なき人」に通じていて、よくわかる句だ。農家だった頃の我が家では、冬の間は毎日のように食べていた。みそ汁ばかりでは飽きてくるので、すまし汁にもしたが、私はこちらのほうを好んだ。この句も、すまし汁のほうではないだろうか。みそ汁よりも、もっと蕪の素朴な味が生きてくるからだ。そして私はといえば、あつあつのすまし汁をご飯の上にじゃーっとかけて食べていた。この食べ方を「ネコ飯」と嫌う人もいるけれど、別の表現をしておけば、ほとんど「雑炊」だとも言えるのであり、寒い日にはとても身体が暖まる。いつの頃からか、じゃーっとはやらなくなったが、蕪の入った雑炊はいまだに好物だ。が、昨今の東京では、なかなか美味な蕪にはお目にかかれない。夏のキュウリと冬のカブ。好物の味が、どんどん下落していく悲しさよ。ところで、ネコはカブを食べますか。(清水哲男)




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