September 011999
九月来箸をつかんでまた生きる
橋本多佳子
多佳子は生来の病弱で、とくに夏の暑さには弱かったという。したがって、秋到来の九月は待ちかねた月であった。涼しくなれば、食欲もわいてくる。「さあ、また元気に生きぬくぞ」の気概に溢れた句だ。それにしても「箸をつかんで」は、女性の表現としては荒々しい。気性の激しさが、飛んで出ている。なにしろこの人には、有名な「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」がある。この句を得たのは五十一歳。「箸をつかんで」くらいは、へっちゃらだったろう。しかも、この荒々しさには少しも嫌みがなく、読者もまた作者とともに、九月が来たことに嬉しさを覚えてしまうのである。九月来の句には感傷に流れるものが多いなかで、この句は断然異彩を放っている。ちなみに、若き日の多佳子は、これまた感情の起伏の激しかった杉田久女に俳句の手ほどきを受けている。「橋本多佳子さんは、男の道を歩く稀な女流作家の一人」と言ったのは、山口誓子である。(清水哲男)
August 311999
ミス六日町に汽笛二度鳴る薄の穂
守屋明俊
薄(すすき)の花穂(かすい)は「尾花」と呼ばれ、秋の七草の一つである。いっせいに風にそよぐ様子には、いわれなき寂寥感に誘われる。「六日町」とは、どこだろうか。新潟県にそういう地名があるけれど、そこかどうかは、句からだけではわからない。いずれにしても、小さな田舎町でのスケッチだろう。あたりいちめんに薄の生い茂る駅でのイベントだ。「ミス六日町」は、さしずめ一日駅長といったところか。テープカットがあったりくす玉が割られたりした後、彼女の合図で汽車が出ていく。景気よく、二度も汽笛を鳴らして……。既にここで作者の思いは、華やかな行事の果てに訪れる淋しさに及んでいる。それが「薄の穂」の、この句における役割だ。「ミス東京」が東京駅で新幹線を見送るのだったら、こうはいかない。句にならない。最近は女性差別に関わる問題もあってか、だいぶ「ミス・コンテスト」なるイベントの数も減ってきたようだ。全国各地で競うように「ミス・コン」が行われた時代もあり、なかには「ミス古墳」なんてのもあった。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)
August 301999
秋灯の交し合ひたる閾かな
上野 泰
馬鹿みたい。次の間との襖が開けっぱなしになっていて、こちらの部屋と次の間とに灯されている電灯の光が、閾(しきい)の上で交差しているというのだ。「秋灯」ならずとも、いつでもこうした現象は見られるわけで、珍しくも何ともない。「秋灯」だから多少の情緒があるにしても、わざわざ表現するほどのことでもあるまいに。私の言葉で言えば、「それがどうした句」の最右翼に分類できる。いい年の大人が、こんなことを面白がって、どういうつもりなのか。と、ほとんどの読者もそう思うに違いない。俳句だから、こういう馬鹿が許されるのだ。ついでに言えば、虚子門だからとも……。なあんて酷評しながらも、最近はこうした「馬鹿みたい」な句に魅かれてしまう。才気溢れる句も好きではあるが、すぐに飽きてしまう。こういうことを言うと、「年齢(とし)のせいだ」と反応されそうだが、正直に言って「年齢のせいだ」と丸くおさめる気にはなれない。「年齢のせいだ」という理屈は、それこそ馬鹿みたいな屁理屈なのであって、とりわけて高齢者が溺れてはいけない言葉の一つだと思う。この句を得たときに、きっと作者も「馬鹿みたい」と感じただろう。あえてそんな「馬鹿」を表現する姿勢に、いまの私は魅力を覚える。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)
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