July 271999
ありそうでついにない仲ところてん
小沢信男
かき氷や蜜豆くらいならばまだしも、ところてん(心太)は目掛けて食べに行くようなものではない。ちょっと休憩と店に入り、たまたま品書きで見つける程度の存在感の薄い嗜好品だ。しかも「心太ひとり食うぶるものならず」(山田みづえ)とあって、確かにひとり心太を食べる図というのも似合わない。句のように、男女の場つなぎの小道具みたいなところがある。このとき「ところてん」ではなく「かき氷」や「蜜豆」では、逆に絵にならない。あくまでも少々陰気な「ところてん」がふさわしいのだ。なんとなく、二人の仲が曰くありげに見えてくるではないか。でも、目の前の相手との曰くは「ありそうでついにない」という仲。「ありそう」だったのは昔のことで、「ついにない」まま過ぎてきた。それでいいのさ、と作者は微笑している。相手の女性も、同じ気持ちだろう。いささかの恋愛感情を含んだ大人の男女の微妙な友情が、さりげなく詠まれていて心地好い。あまり美味いとは思わないが、そんな誰かと裏町のひっそりとした店で「ところてん」を食べたくなってくる。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)
July 261999
琴の音や片蔭に犬は睡りつつ
藤田湘子
猛暑の昼下がり。さすがの犬もぐったりとなって、片蔭に睡っている。そんな光景のなかに、どこからか琴の音が流れてくる。近くに、琴を教える家があるのだろう。琴の音はそれ自体でもすずやかだが、和服姿で弾いている人の凛とした姿までが想像されて、一服の清涼剤のように感じられる。犬はと見れば、馬耳東風ならぬ「犬耳琴音」で、ぴくりとも動かない。この対比が面白い。いまでこそ琴を教える家は減ったけれど、昔は今のピアノ教室のように、そこここに見られたものだ。琴が、良家の娘のたしなみの一つだったこともあるだろう。だから、句は特別な場面や土地柄を詠んでいるわけではない。ありふれた真夏の町のスケッチである。犬にも鎖はついていない。いまどきの犬が知ったら羨望を禁じえないであろう、放し飼いの犬なのだ。まことにもって、往時茫々。京都での学生時代、私は琴ではなく妙に三味線に縁があって、連続して小唄と長唄の師匠の家に下宿した。しかし、真夏の昼間の三味線の音、あれはいけない。犬もハダシで(笑)逃げ出すほどの暑苦しい音である。『途上』(1955)所収。(清水哲男)
July 251999
蝉の家したい放題いませねば
藤本節子
作者は、やかましいほどの蝉時雨を浴びている家にいる。でも、ちっとも不愉快じゃない。むしろ、蝉時雨に拮抗できるほどの元気が、作者にも、そして家族にもあるということだ。病人一人いるわけじゃなし、みんなが元気という、いわば一家の盛りの夏である。とはいえ、この家のこうした元気もいつかは衰えていくだろう、そう長くはつづくまいと、作者は予感している。すでに家中に、かすかな兆しが見えはじめているのかもしれない。だからこその、今のうちなのだ。誰に気兼ねをすることもなく、したい放題自由にふるまう時間は短いだろうから、何でも好きなことをやっておかねば……。俳句にしては、珍しく明朗で愉快なメッセージが伝わってくる。私などは「元気だなあ」と半ば呆れ、半ば感心させられる句境だ。ところで、作者の「したい放題」とは、何だろうか。おそらく、作者にもよくわからないのではないか。とにかく「したい放題」何でもやるのだという元気な決意が、沸き立つ蝉の声を貫いて読者に届けば、それが作者の本意なのだと思う。(清水哲男)
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