海の日。東北巡航の明治天皇が明治丸で横浜帰着(1876)の日。海水浴とは無関係。




1999年7月2句(前日までの二句を含む)

July 2071999

 暑中休暇の雀来てをり朝の庭

                           清水基吉

供であれ大人であれ、夏休みの朝は格別な気分になる。とくに休暇がはじまった朝は、いつまで寝ていてもよいようなものだが、かえって早起きをしたりする。日常とは異なる生活時間の流れを意識して、軽い興奮状態になるからだろう。静かで、なんでもないように写る句であるが、そこらあたりの気分をよくとらえている。休暇であろうとなかろうと、毎朝庭に雀は来ているわけで、しかし日頃は気にもとめない存在でしかない。あわただしい朝の時間に追われて、来ていることすら意識しない場合のほうが多いだろう。それを今朝ははっきりと意識して、しばらく眺め入っているという句境。私がサラリーマンだった頃は、こういうときに何故か心の内で「ざまあ見ろ」などとつぶやいていたのは、品性下劣のなせるところか。しかし、休暇も三日目くらいになると無性に人恋しくなってきて、「ざまあ見ろ」の旗はさっさと下ろし、同僚がいそうな新宿の酒場に向かったのだから「ざま」は無かった。格好よくなかった。(清水哲男)


July 1971999

 なすことも派手羅の柄も派手

                           杉原竹女

ずは「羅(うすもの)」の定義。私の所有する辞書や歳時記のなかでは、新潮文庫版『俳諧歳時記』(絶版)の解説がいちばん色っぽい。「薄織の絹布の着物で、見た目に涼しく、二の腕のあたりが透けているのは心持よく、特に婦人がすらりと着こなして、薄い夏帯を締めた姿には艶(えん)な趣がある」。要するに、シースルーの着物だ。というわけだから、女の敵は女といわれるくらいで、同性の羅姿には必然的に厳しくなるらしい。とりあえず、キッとなるようだ。派手な柄を着ているだけで、句のように人格まで否定されてしまったりする。コワいなあ。と同時に、一方では俳句でも悪口を書けることに感心してしまう。鈴木真砂女に「羅や鍋釜洗ふこと知らず」があるが、みずからの娘時代の回想としても、お洒落女に点数が辛いことにはかわりあるまい。反対に、男は鍋釜とは無縁の派手女に大いに甘い。「目の保養になる」という、誰が発明したのか名文句があって、私ももちろん女の羅を批判的にとらえたことなど一度もない。新潮文庫の解説者も、同様だろう。それにしても、羅姿もとんと見かけなくなり、かつ色っぽい女も少なくなってきた。昔はよかったな。(清水哲男)


July 1871999

 焼酎を野越え山越え酌み交はす

                           菅 裸馬

の途中。「野越え山越え」というのだから、列車の中だろう。気の置けない仲間と列車の一隅を占拠して、良い心持ちになっている。つまり、ほとんど出来上がっている(笑)。酔眼に流れる窓外の景色は、まさに「野越え山越え」の常套句さながらと思われて、ますます気宇壮大の気分に拍車がかかる。そして、この「野越え山越え」には、もう一つの抽象的な淡い意味がこめられていると思われる。これまた常套句を使っておけば、「はるばると来つるものかな」という人生上の情緒的哀歓だ。楽しく酔っている場面だから、そんな哀歓はちらりと淡く胸をかすめただけだろう。が、そこを見落とすと、句の味わいは薄っぺらなものにる。まったく酒を飲まない人にはわからない句境だろうが、飲酒の最中にさしたる理由もなく、ふっと訪れる哀歓もまた、酒の良さなのだ。「野越え山越え」と楽しそうな酔っ払いたちにも、それぞれの人生があるということ。今日も日本のどこかでは、こんな酔っ払いたちが「野越え山越え」と酌み交わしていることだろう。「焼酎」は夏の季語。(清水哲男)




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