東京の梅雨は仕切り直し。ついでに我が人生も…、とはいきませんかね。頭、絶不調。




19990618句(前日までの二句を含む)

June 1861999

 鮎は影と走りて若きことやめず

                           鎌倉佐弓

京地方での鮎釣りの解禁日は秋川流域が先週の日曜日、多摩川も間もなくだ。好きな人は解禁日を待ち兼ねて、夜も眠れないほどに興奮するというから凄い。子供の遠足前夜以上。私は素早い動きの魚は苦手なので、一度も鮎を目掛けて釣ったことはない。どろーんとした鮒釣りが、子供の頃から性にあっていた。それはともかく、掲句は鮎の動きをとてもよくとらえていて素敵だ。たしかに「影」と一緒に走っている。しかも単なる写生にとどまらず、「若きことやめず」と素早く追い討ちをかけたところが見事。若さは、影にも現われる。人間でも、化粧もできない影にこそ現われる。しかも、鮎は「年魚」とも言われるように、その一生は短い。だからこそ、今の若さが鮮やかなのだ。句には、佐藤紘彰の英訳がある。俳誌「吟遊」(代表・夏石番矢)の第二号に載っている。すなわち"A sweetfish runs with its shadow ever to be young"と。以下、私見。……間違いではないんですけどねエ、なんだかちょっと違うんですよねエ。第一に、鮎が露骨に単数なのが困る。"sweetfish"が"carp"のように単複同一表記なのは承知しているが、ここはやっぱり"Sweetfish"と出て、一瞬単複いずれかと読者を迷わせたほうがベターなのではないかしらん。『潤』(1984)所収。(清水哲男)


June 1761999

 何となくみな見て通る落ち実梅

                           甲斐すず江

ばたに、いくつかの青い梅の実が落ちている。なかには人に踏まれたのか、形が崩れてしまっているものも……。それだけの情景であるが、通りかかる人はみな「何となく」見て過ぎてゆく。惜しいことにだとか、ましてや無惨なことにだとかの感情や思いもなく、ただ「何となく」見ては通り過ぎてゆくのである。三歩も行けば、誰もがみな、そんな情景は忘れてしまうだろう。こういうことはまた、他の場面でも日常茶飯的に起きているだろう。「何となく」いろいろな事物を見て過ぎて、そしてすぐに忘れて、人は一生を消費していくのだ。句は読者に、そういうことまでをも思わせる。「何となく」という言葉自体は曖昧な概念を指示しているが、作者がその曖昧性を極めて正確に使ったことで、かくのごとくに句は生気を得た。「何となく」という言葉を、作者はそれこそ「何となく」使っているのではない。情景は、その時間的な流れも含めて、これ以上ないという精密さでとらえられている。地味な句だが、私にはとても味わい深く、面白かった。『天衣(てんね)』(1999)所収。(清水哲男)


June 1661999

 隣席は老のひとりのどぜう鍋

                           大沢てる子

物というと普通は冬季のものだが、「どぜう鍋(泥鰌鍋)」は夏季。暑い最中に熱い鍋をフーフーやりながら食べるのが美味いそうだが、私は一度も食したことなし。少年期を過ごした山口県の田舎には、泥鰌など自然にいくらでもいたのだけれど、食べられるとは思っていなかった。どちらかというと、川遊びの友だちのような存在だった。イナゴについても、同様だ。幼い頃からの友だちを、誰が食べようなどと思うだろうか。食べたことはないけれど、野蛮な友人たちが美味そうに食べる姿は、何度も見たことがある。あれは多分、大勢でわいわい言いながら食べるほうが似合う食べ物のようだ。それを隣席の老人は、ひとりで黙々と食べている。そんな姿が気になる細やかな感受性を私は好きだが、でも、作者もまた誰かと一緒に泥鰌を食べているのだと思うと、なんだかシラける気分にもなる。近い将来、私が独り身になることがあったら、一度は泥鰌を食べに行ってみようか。隣席に作者のような心優しい人がいるかもしれないが、なあに、こっちは生涯を掛けての大冒険のつもりなのだから、むしろ妖しい殺気のようなものを感じてほしいと思う。無理だろうな。(清水哲男)




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