April 261999
ある朝の焼海苔にあるうらおもて
小沢信男
海苔(のり)に裏と表があるくらいは、誰でも承知している。でも、食卓でいちいち裏表を気にしながら食べる人はいないだろう。ご飯などに巻きつけるときに、ほとんどの人は海苔の表を外側にしていると思うが、無意識に近い食べ方である。ところが、作者はある朝に、どういうわけか海苔の裏表を意識してしまった。「ふーむ」と、箸にはさんだ「山本山」か何かの焼き海苔を、裏表ひっくり返してみては、しきりに感心している。こんな図を漱石の猫が見たら、何と言うだろうか。想像すると、楽しくなる。しかし、こういうことは誰にでも起きる。当たり前なことを当たり前なこととして直視することがある。他人には滑稽だけれど、本人は大真面目なのだ。そして、この大真面目を理解できない人は、スカスカな人間に成り果てるのだろう。余談になるが「山本山」のコマーシャル・コピーに「上から読んでもヤマモトヤマ、下から読んでもヤマモトヤマ」というのがあった。すかさず「裏から読んでもヤマモトヤマ」と反応したのが、今は早稲田大学で難しそうな数学の先生をやっている若き日の郡敏昭君であった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)
April 251999
鉄道員雨の杉菜を照らしゆく
福田甲子雄
雨の夜のレール点検作業だ。懐中電灯でか、カンテラでか。どこを照らしても、その光の輪のなかに杉菜が見られる季節になった。黒い合羽の鉄道員と、雨に輝く杉菜の明るい緑との対比が印象的だ。田舎の単線での光景だろうか。杉菜は強いヤツで、どこにでもはびこる。『鉄道員』というイタリア映画があった。主人公の貧しい生活と鉄道員であることの誇りとが、リアリズム風に描かれていた。が、そんな当人たちの実体とはかけはなれたところで、この呼称そのものに独特な響きを感じる時代があった。たとえ単線であろうとも、一国の大動脈に関わる職業というわけで、社会も敬意をはらった時代が確実に存在した。六十年以上も前に、熊本工業を卒業するにあたって、川上哲治が職業野球に行くか、それとも「鉄道に出るか」と悩んだ話は有名だ。世間的なステータスは、もちろん「鉄道」のほうが断然高かった。天下の国鉄労働者は、憧れの職業だったのだ。今は、どうなのだろう。鉄道員は健在だし、レール点検のような基礎的な作業は、句のように行われている。そのご苦労に、しかし、敬意をはらう感覚は薄れてしまったのではあるまいか。そういえば、いつの頃からか、子供たちの「電車ごっこ」も姿を消したままだ。(清水哲男)
April 241999
子雀のへの字の口や飛去れり
川崎展宏
まだ嘴(くちばし)の黄色い雀の子が、庭先にやってきた。可愛らしいなと、よくよく顔を見てみると、口をへの字に結んでいる。もちろんそんなふうに見えただけなのだが、チビ助のくせに早くも大人のような不機嫌な顔の様子に、作者はちょっと意表を突かれた感じだ。と、もう一度よく見ようと目をこらす間もなく、怒った顔つきのまま、ぷいと子雀は飛び去ってしまった。それだけの観察だが、読者に、この束の間の観察がかえって強い印象を与えることになる。子雀にかぎらず生物の子はみな可愛いけれど、チビ助の不機嫌を可愛らしさとつなげた句は珍しいと思う。しかし、考えてみれば、こうした感覚はごく日常的なものだ。人間のチビ助だって、口をとんがらせていると、余計に可愛くなるというような感情はしばしば湧く。だから、この句は誰にでもわかる。このように、俳句では、その短さ故に「平凡」と「非凡」は紙一重のところがある。その意味で、この句は実作上の大切なヒントを含んでいる。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)
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