期末テストの最中。昼間、高校生や中学生に出会います。若さは、やはり素敵です。




1999年2月26日の句(前日までの二句を含む)

February 2621999

 もの忘れするたび仰ぐ春の山

                           黛 執

かにもおおどかで、優しい感受性のある黛執(まゆずみ・しゅう)の世界。俳句もよくした映画監督の五所平之助に手ほどきを受け、すすめられて「春燈」の安住敦に師事したというキャリアを知れば、大いに納得のいく句境である。もの忘れをするたびに、なんとなく春の山を仰いでしまう。作者は湯河原(神奈川県)の在だから、湯河原の山だろう。ただこれだけのことなのであるが、記憶という人為的かつコシャクな営みを、芒洋たる春の山に照らしているところに、なんとも言えない人柄の良さを感じる。映画俳優でいえば、たとえば笠智衆のような人が詠んだら似合いそうな句だと、私には写る。諸作品中の傑作とは言い難いけれど、このように作者の人柄を味わうことができるのも、俳句を読む楽しさの一つだ。話は変わるが、私の「もの忘れ」は三十代後半くらいからはじまった。映画批評なども書いていたので、それまでには絶対に忘れるはずもない俳優の名前が出てこなくなったりしだして、愕然とした。その俳優の仕草や顔もはっきり浮かぶのに、どうしても名前が思い出せない。振り仰ぐ山もなかったので、目がテンになるばかり。容赦なく、迫り來る締切。ついには川本三郎君につまらない電話をしたりして……というようなこともあったっけ。いずれ「もの忘れ論」を書きたいので後は省略するが、言えることは、そんなときに、まずは作者のように泰然としていることが肝要だということである。『春野』所収。(清水哲男)


February 2521999

 雨はじく傘過ぎゆけり草餅屋

                           桂 信子

餅屋だから、そんなに大きな店ではない。店の土間と表の通りとが、そのまま地つづきになっているような小さな店を想像した。観光地に、よく見られる店だ。外は春雨。作者が店内で草餅を選んでいると、傘に雨粒を弾かせながら、草餅など見向きもせずに通り過ぎて行った人がいたというのである。雨を弾く傘ということは、コウモリ傘などではなくて、油紙を張った昔ながらの唐傘だろう。それもこの句の場合には、油紙の匂いがプンと鼻をつくような新しい唐傘が望ましい。草餅に春を感じ、通り過ぎて行った人の傘の音にも春を感じと、この句は春の賛歌に仕上がっている。外光的には暗いのだけれど、だからこそ、かえって春の気分が充実して感じられる。草餅は、大昔には春の七草の御行(母子草)を用いたとも聞くが、現在では茹でた蓬(よもぎ)を搗き込んで餅にする。子供のころに住んでいた田舎は蓬だらけだったから、草餅の材料には不自由しなかった。よく食べたものだが、草餅のために摘んだ程度で息絶えるようなヤワな植物ではない。こいつが大きくなると強力な根が張ってきて、引っこ抜こうにも簡単には抜けなくなる。農家の敵だった。草餅を見かけると、つい、そんなことも思い出される。『草樹』所収。(清水哲男)


February 2421999

 春愁の中なる思ひ出し笑ひ

                           能村登四郎

愁とは風流味もある季語だが、なかなかに厄介な感覚にも通じている。その厄介さかげんを詩的に一言で表せば、こういうことになるのだろうか。手元の角川版歳時記によれば、春愁とは「春のそこはかとない哀愁、ものうい気分をいう。春は人の心が華やかに浮き立つが、反面ふっと悲しみに襲われることがある」。国語辞典でも同じような定義づけがなされているけれど、いったい「春愁」の正体は何なのだろうか。精神病理学(は知らねども)か何かの学問のジャンルでは、きちんと説明がついているのだろうか。とにかく、ふっと「そこはかとない哀愁」にとらわれるのだから、始末が悪い。そういう状態に陥ったとき、最近はトシのコウで(笑)多少は自分の精神状態に客観的になれるので、自己診断を試みるが、結局はわからない。作者のように「ものうさ」のなかで思い出し笑いをするなどは、もとより曰く不可解なのであり、それをそのまま句にしてしまったところに、逆説的にではなく、むしろ作者のすこやかな精神性を感じ取っておくべきなのだろう。少なくとも「春愁」に甘えていない句であるから……。『有為の山』所収。(清水哲男)




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