February 211999
如月や日本の菓子の美しき
永井龍男
甘いものは苦手なので、めったに口にすることはない。が、たしかに和菓子は美しく、決して買わないけれど(笑)、ショー・ケースをのぞきこんだりはする。句は、ひんやりとした和菓子の感じを如月(きさらぎ)の肌寒さに通じ合わせ、その色彩の美しさに来るべき本格的な春を予感させている。見事な釣り合いだ。手柄は「和菓子」といわずに「日本の菓子」と、大きく張ったところだろう。「よくぞ日本に生まれけり」の淡い感慨も、ここから出てくる。観賞としてはこれでよいと思うが、ちょっと付言しておきたい。すなわち、私のなかのどこかには、このような美々しい句にころりとイカれてはいけないという警戒感が常にあるということだ。「日本」という表現に国粋感覚を嗅ぎ取るというようなことではなくて、美々しさの根拠を「日本」という茫漠たる概念に求めて、その結果がこのようにぴしゃりとキマる詩型への怖れとでもいおうか。私などが書いている詩では、とてもこのようなおさめかたは不可能である。このことは俳句という詩型のふところの深さを示すとも取れようが、他方では、曖昧さを自己消滅させる機能が自然と働く詩型だと言うこともできるだろう。かつて桑原武夫が「第二芸術」と評したのは、言葉を換えれば、こういうことからだったのではないかと思ったりもする。俳句はコワい。(清水哲男)
February 201999
鴬の身を逆にはつね哉
宝井其角
去来曰「角(其角)が句ハ春煖の亂鴬也。幼鴬に身を逆にする曲なし。初の字心得がたし」(『去来抄』)とあって、この句は去来が痛烈に批判したことでも有名になった。「はつね」というのだから、この鴬はまだ幼いはずだ。そんな幼い鴬が、身をさかさまにして鳴くなどの芸当ができるわけがない。「凡物を作するに、本性をしるべし」とぴしゃりと説教を垂れてから、其角ほどの巧者でもこんな過ちを犯すのだから、初心者はよほど気をつけるようにと説いている。理屈としては、たしかに去来のほうに軍配は上がるが、しかし、ポエジー的には其角の「曲」のほうが勝っている。春いちばんに聴いた鴬の姿は事実に反するとしても、作者の楽しげな気分が活写されているではないか。このように其角には、客観写生をひょいと逸脱するところがあり、昔からそこが「よい」という読者と、そこが「駄目」という読者がいる。私は「よい」派ですが、あなたはどうお考えでしょうか。『去来抄』の鴬の句で評判がよいのは、なんといっても半残の「鴬の舌に乗てや花の露」だ。「てや」がよい、一字千金だと去来が言い、丈草にいたっては「てやといへるあたり、上手のこま廻しを見るがごとし」と変な讃め方までしている。(清水哲男) [早速、読者より]「我が家で飼ってる鶯は幼鶯ですが、逆さで鳴いたりしてますけど・・・。むしろ、年とってるヤツの方が落ち着いてるせいかそんなことしないみたい」。となれば、去来はピンチですね。ありがとうございました。
February 191999
しやがむとき女やさしき冬菫
上田五千石
季語ではあるが、冬菫というスミレの品種はない。春に咲くスミレが、どうかすると晩冬に咲くこともあり、それを優雅に呼称したものである。もとより珍しいので、見つけた女性はしゃがみこんで見ている。そのしゃがむ仕草を、作者の五千石は女性「一般」のやさしさの顕れと見て、好もしく思っている。ところが、この句の存在を知ってか知らずか、池田澄子に「冬菫しゃがむつもりはないけれど」の一句がある。昨年だったか、両句の存在を知ったときに、思わず吹き出してしまった。こいつは、まるで意地の張り合いじゃないか……などと。五千石は他界されているので、わずかな知己の間柄(たった一度、テレビの俳句番組でご一緒しただけ)ではある池田さんに電話をかけて聞いてみようかなと思ったりしたのだが、やめた。これは両句とも、このままで置いておいたほうが面白かろうと、なんだかそんな気がしたからであった。人、それぞれでよい。詮索無用。人の「やさしさ」を感じる心にしても、しょせんは人それぞれの感じ方にしか依拠できないのだから。(清水哲男)
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