三鷹武蔵野地域では、いまが銀杏の黄葉の見頃。明日頃から、どんどん降ってくる。




1998年12月6日の句(前日までの二句を含む)

December 06121998

 おでん煮えさまざまの顔通りけり

                           波多野爽波

台のおでん屋。あそこは一人で座ると、けっこう所在ないものだ。テレビドラマでも映画でもないのだから、人生の達人みたいな格好の良いおじさんが屋台を引いてくるわけではない。だから、おじさんと人生論などかわすでもない時が過ぎていくだけだ。したがって客としても、そんなおじさんをじろじろ眺めているわけにもいかず、必然的に、目のやり場としては、屋台の周辺を通っていく見知らぬ誰彼の方に定まるということになる。と、まさに句のように「さまざまな顔が通り」すぎていく。それがどうしたということもなく、チクワやハンペンをもそもそと食べ、なぜかアルコールの薄い感じのする酒をすすりながら、「さまざまな顔」をぼんやりと見送っているという次第。句の舞台はわからないが、爽波は京都在住だったので、勝手に見当をつければ出町柳あたりだろうか。出町柳には、私の学生時代に毎晩屋台を引いてくる「おばさん」がいた。安かったのでよく寄ったのだが、彼女は学生と知ると説教をはじめるタイプで、辟易した思い出がある。「悪い女にひっかからないように」というのが、彼女得意の説教のテーマであり、辟易はしていたが、おかげさまで今日まではひっかからないで(多分……)すんでいるようだ。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


December 05121998

 日光写真片頬ぬくきおもひごと

                           糸 大八

光写真は冬の季語。「青写真」ともいい、子供の冬の遊び。漫画のキャラクターなどが黒白で印刷されたネガに印画紙を重ね、その上にガラス板を置き、日光に当てて焼き付ける。水洗いすると、絵が浮き上がってくる種類のものもあった。いまではまったく廃れてしまい、新しい歳時記では削除されている。私の子供の頃の少年雑誌の新年号には、必ず付録についていて、楽しみだった。ただし、ネガの枚数よりも印画紙が少なく、どれを焼き付けるかをセレクトするのが大変だった。ま、それを考えるのも、楽しみの一つだったけれど……。ところで、この句の子供は、かなり大人びているようだ。低い冬の日に片頬を照らされながら、完全に日光写真に没入してはいず、何か他のことを思っている。かすかに芽生えはじめた恋心にとらわれていると読んだのだが、そうなると、この少年にとっての日光写真遊びも、この冬あたりで終わるということだ。いつまでも子供っぽくはいられない少年のありようが、的確に捉えられている。どんなに熱中している遊びでも、いつかは終わる。それっきりで、生涯思いださない遊びもあるだろう。(清水哲男)


December 04121998

 日のあたる石にさはればつめたさよ

                           正岡子規

の季語「冷たし」は寒さを表す言葉の一つであるが、同じく季語である「寒し」に比べると、皮膚感覚に重点がかけられている。より即物的な感覚を表す。この句は、そういうことを言っている。教科書に載っているかどうかは知らないが、小学生などにそういうことを教えるためには格好の教材だろう。日があたっているというのだから、少しは寒気もゆるんでいる。しかし、何げなく触れてみた石は、ハッとするほどに冷たいのだった。誰もがよく体験することだけれど、そこを逃さずにスケッチしたところは、やはり子規ならではと言うべきか。漢字と平仮名の配合もよい。「つめたさよ」のほうが、漢字にするよりも本当に触った実感が滲み出てくる。そしてこのとき、なんでもない路傍の石がにわかに存在感を増すのである。ずしりと重くなるのだ。この「冷たし」が心理的に拡大されると、たとえば「あの人は冷たい」などという用法に発展する。すなわち「あの人」の存在感が、にわかに不人情の一面からクローズアップされるわけだ。こんなことなら「日のあたる」暖かそうな「あの人」に、触らなければよかったのに……。(清水哲男)




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