東京新聞に盗んだサインを知らせている男の写真。誰がいつ何のために撮影したのか。




1998年12%句(前日までの二句を含む)

December 04121998

 日のあたる石にさはればつめたさよ

                           正岡子規

の季語「冷たし」は寒さを表す言葉の一つであるが、同じく季語である「寒し」に比べると、皮膚感覚に重点がかけられている。より即物的な感覚を表す。この句は、そういうことを言っている。教科書に載っているかどうかは知らないが、小学生などにそういうことを教えるためには格好の教材だろう。日があたっているというのだから、少しは寒気もゆるんでいる。しかし、何げなく触れてみた石は、ハッとするほどに冷たいのだった。誰もがよく体験することだけれど、そこを逃さずにスケッチしたところは、やはり子規ならではと言うべきか。漢字と平仮名の配合もよい。「つめたさよ」のほうが、漢字にするよりも本当に触った実感が滲み出てくる。そしてこのとき、なんでもない路傍の石がにわかに存在感を増すのである。ずしりと重くなるのだ。この「冷たし」が心理的に拡大されると、たとえば「あの人は冷たい」などという用法に発展する。すなわち「あの人」の存在感が、にわかに不人情の一面からクローズアップされるわけだ。こんなことなら「日のあたる」暖かそうな「あの人」に、触らなければよかったのに……。(清水哲男)


December 03121998

 寒柝や長き手紙の封をせり

                           岡田史乃

柝(かんたく)は、寒い冬の夜に打ちならされる拍子木の音のこと。「火の用心」と声を上げながらの拍子木の音は、どこか物悲しさを感じさせる。長い手紙を書き終えてほっと安堵した作者の耳に、遠くの方から寒柝が聞こえてきた。しっかりと封をしながら、時計を見るまでもなく、夜も相当に更けてきたことを知るのである。長い手紙なのだから、時間を忘れて書くことに没頭していた。書き終えて、ふと我に帰った状態を巧みに捉えた句だ。そして、この情感を伝える季節としては、やはり冬がふさわしい。他の季節では、きっぱりと書き終えた気分が曖昧になってしまうからだ。余談になるが、昨今の東京の出火原因は、圧倒的に放火が多いのだそうだ。三鷹市あたりでは、昼の放火も増えてきたという。ならば、人はなぜ火を放つのか。有名な「八百屋お七」事件以来のこの謎にいどんだのが、多田道太郎さんの『変身放火論』(講談社・1998)である。これからの夜長の読み物として、お薦めしておきたい。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


December 02121998

 窓の雪女体にて湯をあふれしむ

                           桂 信子

者三十代の句。女盛りの肉体が、浴槽の湯をざあっと溢れさせている。外は雪だ。この暖寒の対比からいやでも見えてくるのは、作者の自己の肉体への執着ぶりだろう。男ならば「ああ、ゴクラク極楽……」とでも流してしまう入浴の気分を、女は身体全体でいわば本能的に流すまいと踏み止まる。男は身体を風流に流せるが、女は決して流せないと言い換えてもよい。このようなときに、女は存在するが、男は存在しないと言っても、言い過ぎではないだろう。たぶん女は、片時も自分に肉体があることを忘れては生きられないのである。かつて清岡卓行は「きみに肉体があるとはふしぎだ」というフレーズを書いたが、これなどは男の身体感を代表する詩句なのであって、この詩の美しさは女には届かないだろう。「ふしぎ」と言われるほうが不思議だと思うはずだからだ。女の肉体への執心は、自己愛と言うのとも、ちょっと違うような気がする。はじめに肉体ありき。そういう前提から、世の中との交流も自己との対話も出発するのではあるまいか。「女盛り」と書いたが、女にはおそらく自分の肉体の盛りがわかるのであり、女性の読者に伝えておきたいが、男はそれこそ不思議なことに、そういうことは皆目わからずに生きてしまうのである。『女身』(1955)所収。(清水哲男)




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